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高校生の時にこの作品に触れたとき、自分が恐ろしい怪物になるのではないかという予感がした。

人間の罪とか、逆らえない運命でも言うのか、いつ自分が闇に呑まれていくのかわからず、怖くなった。


二度目にこの作品を通して読んだのは、今日である。

今回の読書で得られたものは、単なる教科書に書いてある近代知識人の自我とかそういったものではなく、1つにはこの作品の面白さだ。

最初から最後まで、先生の罪とは何か、という問いをずっと意識させながら、退屈させないのが漱石の巧さなのである。

そして、真面目さという、もはや読書をする人にしかもう持ちえないのではないかという物事に対する姿勢が、この作品には一貫して存在する。

決してこの作品の色調は明るくはない。

けれども、単なる自殺の物語と言っていいほど単純なものでもなければ、倫理的な哲学ばかりを含んだ難解な書物でもない。

誰の中にも本当はあったはずだ。

他でもないこの作品にあるタイトル通りの、この作品を味わう「こころ」を。

こんばんは。

いよいよ私も社会人になりまして、訓練ではありますが仕事に取り掛かり、自分の習慣よりも優先しなければならないことも増えてきます。

何かあったときにはこのページで報告させていただきます。


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4月12日、しばらく多忙のため、翻訳作業をストップします。ご了解下さい。


4月7日、訳文はできているものの、打ち込みの時間が足りないので明日に回す。


4月6日、翻訳を中断し、休養に充てる。

過去20年間に渡って、私はある大学で英語文学を教え、研究してきた。

他のどんな仕事でもそうであるように、人々がそれらを尋ね続けるからではなく、それらがそこにあるというまさにその事実によって歓喜さえた問いであるため、ある問いは人の心にいつまでも残る。

文学研究はなんの役に立つのだろうか?

それは、私に、それなしである以上に、よりはっきりとものを考えさせ、あるいは感受性豊かに感じさせ、あるいはよりよい人勢を送ることへの手助けをするだろうか?

教師や教授、あるいは私のように、文芸評論家と呼ぶ人の役割とは何だろうか?

社会的、政治的、宗教的態度において。 文学研究とはどんな差異があるだろうか?

私のここ数日、こうした問いはほとんど考えなかった。

私がそのような問いを持たないからではなく。私が尋ねたどんな人もナイーブだと推測したからだ。

私は今最も易しい問いは。答えるのが大変なだけでなく、最も尋ねるに重要な問いであるので、私はそれらを取り上げて、私の現在の答えが如何様であるか提示しようと思う。

私は提示しよう、と書いた。

何故なら、多かれ少なかれそうした問いへの不適切な答えというのは存在するからだ。しかし正しい答えがないわけではない。

文学が挙げる問題の種は、あなたが「解決」できる」種のものではない。私の答えが役立つかどうかそれらは問いについて考えることへのかなりのものを表現している。私が徴収を見られないので、私は自己の暗い中の修辞的形式を採用し、私は教室の様式を採る。

何故なら学生という聴衆が私にとって最も気楽に感じられる聴衆だからである。

(p13-14、29/3/28更新)

私が君たちと議論したいことは、とり分けて二つある。

学校で、大学で、英語を話す国々で「英語」と呼ばれる科目についてだ。

英語は、まず第一に、母語である。

そうであるから、英語は世界で最も実用的な科目である。

あるいはそれなしには、君は全く理解せず君の社会においてはどんな要素もつかめないかもしれない。

読み書きができないことは、どこでも問題である。

充分にものを食べられ寝る場所を得ることができないのと同じくらい基本的な問題である。

母語は他の全ての研究の対象より優先されてきた。

他の何ものも有用性においてはそれとは比べるべくもない。

しかしその時君が他のあらゆる母語がどんな発展途上国でも文明社会でも文学と呼ばれる何かに変わったのを見つけるだろう。

もし君が「英語」を学び続けるのなら、君はシェイクスピアやミルトンを読む自分に気付くだろう。

文学、私が言っているもの、それは芸術の一種で、絵画や音楽と同様、君があらゆる固い言葉と古典的な引喩を調べ上げ、詩的表現や言葉遣いのような言葉が何を意図しているか、君がそれをどのような理解において使っているかということを学ぶことは、即ち君が言うように創造力だ。

ここには君が全く同じ実用的、有用な空間があり、シェイクスピアやミルトンは、君が社会における占めるべきどんな地位を知らなくてはいけない種のものでもない。

(p14-15、29/3/29更新)

文学について何も知らない人というのは無学な人かもしれないが、多くの人はそうであることを気にしない。

子どもならだれでも、文学が自分を異なる方向へすぐ役立つところから捉え、多くの良い子供たちはこのことを大声で主張する。

そこで私たちがまず取り扱いたい二つの問いとは、文学英語に対する母語としての英語の結びとは何か、そして文学研究の価値とは、学習過程において文学が本気で立ち向かう創造力の地位とはなんであるか、である。

私たちが生きている世界で扱っている様々な方法に取り掛かってみよう。

もし君がだれも住んでいない南海の島に難破することを考えてみれば、だ。

君がまずすることは、自分の周りの世界を長く見てみることだろう。

すなわち君の周りの、空、海、地球、星、木々、丘、の世界である。

君はこの世界を目標として見て、とにかく君に対しての、君自身でなく、君に関連してもいない世界として位置づけるだろう。

そして君がこの目標となる世界の二つの物事に気付くだろう。

まず第一に、どんな会話も必要とはしないのだ。

それは動物、植物。昆虫、自分たち自身の営みを行っているもので溢れている。

しかし君に反応するものは何もない。

それにはモラルもなく、知性もない、少なくとも君がつかめるものなど何もない。

それは形をとって意味を成すものかもしれない、

しかしそれは人間の形や人間の意味をとることはない。

そのような世界では、充分に食べるものがあったとしても、危険な動物がいなかったとしても、君は孤独を感じ、怖れ、必要とされないであろう。

(p15-16、29/3/30更新)

第二に、君は自分に向けられたものとして世界を見ることが、二つに心を分裂させるのに気付く。

君はそれについての好奇心を感じ、それを学びたがる頭脳を持ち、君はそれを美しい、あるいは厳格な、あるいは酷いとみる感情や感性を持つ。

少なくとも君に、これらの態度両方がある現実性を持つということを君は知っている。

もし難破した船がヨーロッパの船なら、君は多分自分の頭脳が自分に外の世界において何かがそこにあるのかをより訴えかけること、自分の感情が自分の内側で何が起きているのかについてより訴えかけることを感じるだろう。

もし君の経歴が中東出身だとしたら、きみはこれを裏返して、美か恐ろしいものは本当にそこにあるものだと言い、そして君の構成要素へと勘定に入れ、格付けし、推し量り、引き抜く本能は君の心の中にある。

しかし君がただ世界を見ているだけでは、視野の一点がヨーロッパか中東かどうか知性と感覚は決して君の心の中で一緒になることはない。

それらは変化し、それらの間で君を分裂したものにさせる。

(p16-17、29/3/31更新)

君がこの心層で使う言語は、意識或いは自覚における言語である。

それは概して名詞の言語と形容詞の言葉だ。

君は事物に名前を付け「濡れた」、「緑」、「美しい」のように、いかに君にとって事物を感じられたかを描写する性質が必要となる。

これは思索的、沈思黙考する精神の態度であり、それは芸術と科学が始めるものだ。

たとえそれらがあまり長くそこに留まらないとしても。

科学はそれらを変化させようとして見ることをせずに外界についての事実やしるしを受け入れることによって始まるものだ。

科学は寸分違わぬ計測と説明によって進行する。

そして感情よりもむしろ理性の要求によって続いていく。

私たちがそれを好きかどうか、そこにそれが何を処理するかがある。

勘定とは、理性で説明のつくものではない。

それらにとって、まず第一に来るそれらが何を好み、何を好まないのかということだ。

私たちは自然と芸術が、科学とは対照的に、感情の横道にそれて続いていくことを考える。

それらが為すことに至るまでに、しかしながら複雑に折り重なった要因が存在する。

その要因とは、「私はこれが好き」と「私はこれが好きでない」の対照である。

君に帰するロビンソン・クルーソーの人生の中では、君は完全な平穏と楽しみという気分になることだろう。

それは君が自分の島と、自分の周りのあらゆるものを受け入れたときになるものだ。

君がそういう気分にしばしばあまりなれないのは、君がそうしたときに、君が島が君の一部であることを発見し、君がその一部であることに気付いた時、同一化の気分になるだろう。

(p17-18、29/4/1更新)

それは意識或いは無意識の感情ではなくて、そこでは君は自分自身の知覚ではないあらゆるものから分裂させられたと感じる。

君のいつもの精神状態は、意識的であるというのを伴う分裂する感情であり、「これは私の一部ではない」という感情は、すぐに「これは私の求めているものではない」にすぐなる。

「求めている」という語に注目するがいい。

私たちはそれに向かって戻っていく。

だから君が生きている世界と君が行きたいと思う世界の間には違いがあるということを君はすぐに確信する。

君が生きたいと思う世界は人間の世界であり、実在のものではない。

それは環境ではなく、故郷である。

それは君の見ている世界ではなく、君が見ているものの外で築かれるものである。

君は倉庫を作るか庭を作るかするために仕事に出かけ、仕事を始めるや否や君は人間の生活の異なる水準へ動く。

君は今自然から自分自身だけを切り離しているのではなく、人間の世界を構築し、それを世界の残りから切り離している。

君の知性と感情は、今両方とも同じ活動に関わり、それでもはやそれらの間には現実の違いはない。

君が庭を作り、作物を植えるや否や君は「雑草」という概念を開発する。

君がそこに欲しくないものだ。

しかし君は雑草が知的である、あるいは感情的である概念だとは言わない。

なぜならそれは共に一度だけのものだからだ。

(p18-19、29/4/2更新)

もっと言えば、自分が仕事に行かねばならぬと感じるから君は仕事に行き、仕事の終わりの何かが欲しいと思うから君は仕事に行く。

それは人生の重要な範疇がもはや主体であり、対象であり、見る人と見られている物事である。

最も重要な範疇は君がやるべきことと君がやりたいこと、言い換えると必要と自由である。

ある人彼自身は完全なる人間ではない。

そこで私は君に、別の対立する生徒最終的な家族の難破した避難者を提供しよう。

さあ、君は人間社会の一員だ。

このしばらく後の人間社会は、島を人間の形をした何かへと変える。

その人間の形をしたものは、君がやるべき仕事の姿へと自然と現れる。

建物、それらのような、動物が食べるものならなんでも、囲いをして仕切られた、木々を抜ける小道、植わった作物。

こうした物事は、つまり町や、高速道路や、庭や、農場の基礎は、自然の人間の庭、あるいは人間性の型、君が好きなあらゆるものだ。

これは実用的な芸術や科学の地域であり、どうやら工学や農学や医学や建築学としての私たちの社会に思われる。

この地域では、芸術が止まり、科学が動き、あるいは逆もまた然りであるということを、私たちははっきりと言うのをやめることができない。

(p19-20、29/4/3更新)

この水準で君が使う言語は、実用的意味での言語であり、動詞の言語或いは行動の単語である。

実際の世界はしかしながら、行動は単語よりも声高に叫ぶ世界である。

いくつかの方法で、それは思索的な水準以上に高い存在の水準である。

何故ならそれはそれをただ見ているだけという代わりに世界の何かを行うことであり、それ自身においてそれはより初期段階の水準である。

それは環境に対して受け入れる過程であり、もっと正確に言えば、ある種の関心における環境を変化させることであり、動物、植物、そして人間も同様にその中で続く。

動物は十分な多くの実用的技術を持つ。

昆虫の中にはとてもなかなかの建設者がおり、モグラたちはかなりたくさん工学について知っている。

この島にはおそらく、そして確かにもし君が一人きりなら君は二流の動物の順位を付けただろう。

私たちの人生を本当に人間らしくするものは、精神の第三段階であり

意識と実用駅に技術が一緒になった水準である。

この第三の基準は君が城築上げたいと望む自身の精神における将来像や模範である。

ここであの「望む」という単語が再び出てくる。

人間の行動は欲望によって誘発され、そうした欲望のいくつかは、食料や温かみや住まいのように必要なものである。

(p20、29/4/4更新)

こうした必要の一つは性的なもので、再生産し、存在へより多くの人間のもたらす欲望である。

しかし存在へと社会的人間の型をもたらす欲望も存在する。

私たちが文明と呼ぶところの町や庭や農場という型である。

多くの動物や昆虫は、この社会的型をまた持っていて、しかし人間はそれを彼らが持つと知っている。

彼は自分がなされたものを想像することに関して処理することと比較できる。

それで私たちは想像力が人間の都合の計画のどこに属するか見始める。

それは人間存在の可能なものになんでもなる。

しかし実際には何も起こらない。

もしそれが起こるなら、行動の世界への創造力の世界の外側へとそれは動くだろう。

私たちは今三つの精神の段階を持つ。

そしてそれらのそれぞれの言語は、英語を話す社会においてそれらにとってそれぞれの英語である。

意識或いは自覚の水準があり、そこで最も重要なことは、私と他のあらゆるものとの間の差異である。

この水準の英語は、普通の会話の英語であり、それはほとんど独白である。

君はすぐに君が少し立ち聞きするか、自分自身聞き耳を立てているか確信する。

私たちはそれを自己表現の言語と呼ぶ。

(p21、29/4/5更新)

そして社会参加の段階があり、働く上でのあるいは技術と教師、説教者、政治家、広告主、法律家、ジャーナリスト、科学者の言語がある。

私たちはこれを実用的な意味ですでに呼んできた。

そして想像のレベルがあり、詩の、戯曲の、小説の、文学的なレベルの言語を生み出す。

それらは実際は異なる言語ではなく、当然、言葉を使うのには三つの異なる理由である。

この基礎では、当然、私たちは科学と芸術を区別することはできない

私たちは住むべき世界で科学は始まる。

そのデータを受け入れ、その法則を説明する、そこから創造力へとつながっていく。

それは静止イン的な建設となり、存在を受け入れる可能な方法のモデルである。より一章遠くこの方向へと進むほど、文学や音楽に加えて、それはより数学の言語を話す傾向になり、それは本当に想像の言語の一つとなる。

藝術は一方においては私たちが築く世界を、私たちが見る世界を伴うことなく始まる。

それは想像力とともに始まり、そしてそのとき普通の益軒へと働きかける。

つまり、それはそれ地たちを可能な限り納得し認識できるようにする。


君は何故私たちが科学を理性的なものと捉え、芸術を感情的なものと捉えるかわかるはずだ。

それ自体の一つの世界の一つの始まり、もう一方は私たちが持ちたいと欲する世界。

ある点までは、科学が現実の理性的な視点を与え、そして芸術は科学が理性的であるのと同様に正確でしつけられたものであるように、感情を生み出そうと努めるものであるのは真実である。

しかし当然、科学者を冷たい感情のない理論家として考えるのはナンセンスであり、芸術家を永続的な感情的に取り乱した人だと捉えるのはナンセンスである。

君は芸術を科学から民族がそれらの内で使う精神の過程によって区別する。

それらは共に、直観と常識を作用するより高度に発達した科学と、より高度に発達した芸術は、心理学上、その他でもともに非常に似通っている。

それでもなお、それらが対立する端緒からスタートしたという事実は、たとえそれらが中間で出くわすことになったとしても、ある重要なそれらの間の差異を生み出す。

科学はそれが続く限り、世界についてよりたくさんたくさんのことを学ぶ。

それは発展し、改善する。

今日の物理学者はニュートンが知っていたより多くの物理学を知っている。たとえそれがそれほど偉大な科学者でなくとも。

しかし文学は、経験のありうる型により始まる。

そしてそれが生み出すものとは、私たちが古典と呼ぶ文学的な型である。

(p22-24、29/4/9更新)

昨日新潮文庫の訳を読み終えた。

尊敬すべき先生がずっと研究されていた作品ということで、心して取り掛かったが、非常に得るものの多い読書であった。

どの頁を読んでいても変わらない一文の重みがあり、真に迫ってくるレトリックが胸を打った。

なかなかストーリーとしては進まず、あちらこちらに分岐していくポストモダン小説らしさにより、冗長な印象はあることはあったが、もう一度読んだときにそれらは却って良さだと思えることだろう。

またもう一度読みたいものだ。


長編小説を読む際、一気に読もうと思うと疲れてしまう。

結局途中のプロットを忘れてしまい、さらにモチベーションが下がる。

『ダロウェイ婦人』がそうだった。


現在、15分で20頁は必ず毎日読むようにしている。

次に読もうと思っているのはフォークナーの『響きと怒り』だが、これも講談社学芸文庫で600頁あるが、そうすれば30日かければ何とか読み終わる。

読みたければ目標以上に読めば早く終わるし、集中できる。

この習慣を続けていきたい。


また、英語を原文で読む習慣は必要である。

異言語を交えて読んでいると、母国語との親和性も高まってくる。

何気ない一文も、不思議と重みをもって読者に迫ってくる。

英語を英語のままで受け入れる。それが大切だ。

そうなると音で英語を受け入れるスキルも必要になってくる。

足りないものだらけだ。

昨日はこのように非常に学術的に多くのことを学べた一日であった。

明日もいい発見があるといい。

図書館で借りて読んでいたのですが、これは非常に面白い本です。

対談形式でズバズバアメリカ文学の本質が語られていて、衝撃を受けました。

近日中に内容をまとめて、自分の形に落とし込んで記事にするつもりなので、期待しないで待っていてください。

柴田元幸、高橋源一郎『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』河出書房、2009年

(2017.4.2現在)

評論の断定についての著者の主張は、とりわけルイス教授とティルヤード教授の間で「個人的異説」というタイトルがつけられる討論における最近の議論の数々を促した。

しかしこの主張と大半のロマンチックな帰結は、まだどんな拡散する問いかけの主題でもある。

現在の書き手は辞書の文学の評論における「目的」というタイトルの問題を提示するが、長さにおいて何の影響をも追及することを不可能にする。

我々は著者の意匠や目的が使用不能でも望ましくもない――文学の芸術の成功を判断する基準としてーーそれが私たちにとってこれは批評の態度の歴史の中の違いのいくらかに深く入っていく原則であるように思われる、

それは古典的な模倣、そしてロマンチックな表現の正反対のものに対する要点を受け入れるか、拒むか、という主義・原理である。

それは必然的に多くの明白な具体的事実、霊感、信憑性、伝記、文学的歴史と学問について、そして一時代的な私的な、特にほのめかしのある傾向についてのものである。

ほとんど文学的評論の問題は生じない。

それは評論家の接近が「目的」という視点によってふさわしいとはされないだろうから。

私たちがこの語を使うべき様に、意図とは公式における彼が意図したこと、多かれ少なかれ広くはっきりと容認する公式における彼が意図したものと一致する。

「詩人の出来栄えを判断するためには、私たちは彼が意図したことを知らねばならない」

意図とは著者の意識下の意匠や計画である。

意図とは、彼が感じたように彼にものを書かせる自身の作品における著者の態度における類似点である。

要約された。そしてぼんやりしている一連の私たちにとっては自明と感じられるような段階までの主張について議論を始めようではないか。

1.

詩は偶然によって存在するようになるのではない。

詩の言葉は。ストール教授gあ述べるように、頭の外から出てきて、帽子から出てくるのではない。

しかしそれでも詩の動機としてのたくらみのある指揮者を主張することは、批評家がその詩の出来栄えの価値を判断する基準としての意匠や意図を受け入れなければならない。


(続)

遅ればせながら報告させていただきますと、卒業が決まりました。

こうして細々とながら文学を続けていきます。

まずはこの本を翻訳してみたらどうか、ということを偉大なる大野先生に指導していただいた。

英語として難しくて仕方というほどでもなく、中身は面白いので、社会人になるという身にはいい材料になると考えた。

そこで、今日から余裕のある日に、毎日1ページのペースで翻訳して、このサイトに載せます。

数ケ月かかることになるが、そこはご了承ください。

あと、とんでもない誤訳がたくさんあると思いますが、お許しください。

次のページで本題に入ります。

私の大学では英米文学は分かれておらず別々だったが、統合されているところもあるかと思う。


経験上イギリス文学と聞いてすぐ思い浮かぶのは、シェイクスピアだろう。

或いは『ハリー・ポッター』。

文学を知らない人でもイメージできると思う。


方やアメリカ文学は、正直あまりイメージが浮かばない印象がある(あくまで印象だが)。

『オズの魔法使い』、『赤毛のアン』など意外と身近にある作品もあるが、なかなか出てこないとではないか。

(ちなみに私は『トム・ソーヤ』、ヘミングウェイあたりしか専攻を決めるまで知らなかった)


脱線するが、日本文学と言って一番初めに思いつくのは海外の人にとっては何だろうか。

『源氏物語』か、それとも夏目漱石とか俳句だろうか。


ちょっと聞いた話から思うことだが、その面白さに十分にアメリカ文学はあまり評価されてこなかったという印象がある。

アメリカの文化は低俗だという思い込みが帝国大学では流行していたという話だ。

アメリカの文化は、個人的には常に最先端を走っているという自負?があるのだが

(現在では一周回ってしまっている気もするが)。


話をまとめると、文学に対する、文学を普段読まない人の認識が変わると、生活はより豊かになるし、それが海外の文学であれば、より異文化交流につながるだろう、という気がする。

そうすれば会話の内容も、紋切り型のつまらないものから少しは良くなるのではないか、とぃう気がしている。

まああまり厳密にやらない方が気楽なので、楽にやろうと思うのだが、基本的な方針を定めておきたい、人生は短いから。


今日、注文していたアンソロジーが届いた。

評論集かと思っていたが、いわゆる教科書だった。

それにしては半端ないボリュームである。

(しかもこれshorter版)

全部やっていてはいくら時間があっても足りないので、優先順位をつけてやりたいと思う。


まずは、なるべく師の業績を理解することから始めたいと思う。

大野一之先生の論文をしっかり読み込むつもりだ。

それに従って、読む作品も決まってくる。

まずは小説から始める。

次は私が取り上げたフィッツジェラルドの研究の続きをやろうと思う。

いくつかは翻訳で読めているが、原文ではまだまだなので、包括的にやれればいいなと思う。

寺尾勝行先生の論文も当たってみたいが、詩が読めるようになるには時間がかかるだろう。


という感じで、あまり手を広げすぎないでやろうと思う。

とりあえず導入するものから当たっていきたい。

しかし、、英語がもっと読めるようになれば、達成できることも増えるだろうにな。

[1]私はこの人間的烈しさに、三つの意味を込めた。”intense”という単語は、「真剣な」、「感動しやすい」という意味がある。人間的烈しさの中には、一つはギャツビーの烈しい観念、二つ目にニックの感動できる心、三つ目に、人間すべてが持っている深いところにある感情というものが私がずっと伝えたかったことである。


[2] ロッジ 211より引用

 「信頼できない語り手」とはつねに、自らが語るストーリーの一部をなす登場人物である。信頼できない「全知の」語り手というのは、ほとんど論理的矛盾であり、きわめて特殊な実験的テクストにおいてしか存在しえない。一方、「全知」ではない、登場人物でもある語り手にしても、まったく一パーセントも信用できないということはありえない。もしその人物の言うことが全部明らかに嘘だとすれば、それは、我々がとっくに知っていること――すなわち、小説とは虚構の産物であること――を再確認させるに過ぎない。物語が我々の関心をそそるためには、現実の世界と同様、小説世界内部での真実と虚偽を見分ける道が与えられていなくてはならない。

 信用できない語り手を用いる意義もまさに、見かけと現実のずれを興味深い形で明らかにできるという点にある。人間がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを、そのような語り手は実は実演してみせるのだ。そうした欲求には、必ずしも本人の自覚や悪意が伴っている必要はない。(ロッジ211)


 この小説の技法を唱えたのは、アメリカの文芸評論家ウェイン・C・ブース(Wayne C. Booth 1921-)であり、それは『フィクションの修辞学』(The Rhetoric of Fiction 1961)で定義された「信頼できない語り手」によるものである。だが、この技法に相当する形式は、それ以前にも使用されていたとされる。著名なのが、イギリスの小説家メアリ・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelly, 1797-1851)の『フランケンシュタイン』(Frankenstein, 1818)である。


[3]ドン・キホーテ的騎士道精神とは次のようなものである。

 …しかるに、騎士道物語を読みだすと、それが病みつきになり、朝はまだ暗いうちからとっぷりと暮れはてるまで、夜はまだ明るいうちからしらじらと明け放れるまで、耽読したあげく、気がへんになって、自分も、今から遍歴の騎士となり、冒険を求めに乗り出し、世間の難儀を救い、物語にあるごとき功名を立てて、不滅のほまれを得ようと思いたつ。[中略]それから、自分も騎士らしく、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗ることにしたものの、最後に、全身全霊を捧ぐべき思い姫が必要なことに気づいて、思案のあげく、あまり遠くないエル・トポーソという村に、アルトンサ・ロレンソなる小奇麗な百姓娘がいたことを思い出し、これをわが思い娘ときめて、ことわりもなく、名をドニャ・ドゥルシネーア・デル・トボーソと変えてしまう。(セルバンテス 39-40)


妄想たくましい真面目な読書家が、自分勝手に作り出した自分の観念にどこまでも忠実に行動を起こし、ハチャメチャなことを繰り返しつつも、不可能を可能に変えていくという点に、私たちはおかしみを覚えつつ、偉大さを感じるのだ。


[4]Fitzgerald 18


Her eyes flashed around her in a defiant way, rather like Tom’s, and she laughed with thrilling scorn. ‘sophisticated - God, I’m sophisticated!’

(彼女[デイジー]の眼は相当トムの眼と同じように挑戦的な様子できらめいた。そしてゾクゾクさせるような軽蔑とともに彼女は声を立てて笑った。「すれちゃった。ああ。私すれちゃったの!」)(翻訳に当たっては野崎孝訳『グレート・ギャツビー』を参考にしている。)


 1章における、デイジーに対するニックが抱く第一印象は、実のところ7章以降で明らかになるデイジーの本性を、言い当てていたということが分かる。そしてジョーダンの「すれっからし」の性格は、共に住むデイジーにも影響を与えている。ギャツビーによって、デイジーへの憧れを持ったニックは、ジョーダンを好きになるが、実際彼は、同じ根から派生した女達に憧れを抱いていた、というのが実際のところである。

 それは「洗練」(”sophistication”)に似た様子ではあるが、洗練され切っておらずむしろ腐敗している。これは第三章で私が述べるように、西部の人間という根を持っているために、東部の洗練に馴染み切れなかったことが要因として挙げられるのかもしれない。


[5]Fitzgerald 1

‘Whenever you feel like criticizing anyone,’ he told me. ‘just remember that all the people in this world haven’t had the advantages that you’ve had.’(1)

(「もしお前が誰かのことを批判したいと感じたときには、この世の全ての人がお前の持つ優位性を持っているわけではない、ということをまさに思い出すがいい」と彼[父]は言った。)


このようにニックの父の教えというのは、上から目線であり、距離を置いたものの見方である。しかしこの教えの影響で、あらゆる面で優勢性を持っている人物であるはずであるのに、全く敵わない美点を持つギャツビーに対して感動できるのである。


[6]野間氏は著書において、185頁以降に、7章のトムの車がウィルソンの工場を訪れたときに、「病人と健康な者の違いに比べれば、知性や人種の違いは大したものではない」、とニックが内面で考えていることに注目し、病気と健康の次に彼が大事にしているものが知性や人種である、ということを指摘している。そのことについて十頁に渡って、証拠となる要因を挙げている。

 野間氏は著書において、新しい『グレート・ギャツビー』の読み方として、非常に目新しい点を、非常に豊富なデータと根拠を以って示している。この著作は、私が論文を作成する際に、非常に参考となる図書として活用させていただいた。野間氏が示した登場人物の捉え方に対してのレスポンスから始まって論が組み立てられていったという感がある。


[7]Fitzgerald 149より、デイジーの運転する車は、四〇マイル(64km/h)以上スピードを出していたと記述がある。クイーンズ・ボロ橋は1,135.2m(1.1352km)とされている。ずっと時速64㎞で通過すれば、約64秒(63.855s)で橋を渡り切ることになる。ニックが通った約一分間の間に、彼の心は揺れた。クイーンズ・ボロ橋は重層構造になっており、橋に入ると自然と暗がりになる。


[8]野間氏は著書の87頁において、このニックとジョーダンのやり取りについて、「ジョージ・ギャレットは、ニックとジョーダンのこの結末を「ニックは恋愛ゲームで負けた」と結論づけている」とし、加えて、「ただしギャレットのこの結論は間違っている。なぜならふたりの恋愛ゲームで負けているのは、ニックではなくジョーダンだからである。ニックは勝っているのだ。それは、ニックの方から別れを言い出している事実からあきらかである」と訂正をしている。

 またその一方で、「…ひるがえって考えれば、ニックはこれまでジョーダンを心底から愛したことがあったのだろうか」と述べ、「ニックは本当は女性を愛せないと考えられるのだ」と言っている。氏の主張からすると、ニックは希望を見いだす非凡な才能を持ったギャツビーと共にいることで、かつてのロマンティックな感性を取り戻したかった。そして実際成功している、と言っている。「兵士の故郷」では


「だれも愛せないんだよ、僕は」クレブズは言った。(108)


という発言がある。狙い通りにロマンティックな感情を取り戻した、という解釈は、この作品においてはつまらないので、私は全面的に賛成できないが、ギャツビーの在り方がニックに決定的な影響を与えたのは間違いないだろう。


[9]ル・コルビュジェの年譜

<http://www.taisei.co.jp/galerie/archive/history.html>最終更新日時:2017年1月25日


[10]モーガンは、鉄鋼トラストでアメリカの五大財閥の一つを形成し、ロックフェラーは、石油王として名を馳せ、カーネギーは、ビジネスライクの作家として活躍し、歴史に名を刻んだ。


[11]この指摘は、氏の著書の訳本である、『『偉大なギャツビー』を読む――夢の限界』の全一四章の内の第二章に当たる、「作品の重要性」という章内で述べられている。訳者によれば、この著書の目的は、私が取り扱う作品を、一九二〇年代の作品として、また優れた小説作品として読み解く、コンテクストを提供することが目的である。また訳者によれば、リーハン氏にとってのこの小説の主題とは、「貧乏な若者ギャツビーは金持ちの娘デイズィとは結婚できない」ことであると書いている。そうした物語を、歴史的・文化的コンテクストに位置づけ、主要登場人物のそれぞれに焦点を当てて、表面上極めてシンプルなプロット・ラインの下に、幾重にも重なる複雑な意味の連鎖を発見している、と訳者は評価している。また、その例としてヘンリー・アダムズの『自叙伝』、フレデリック・ジャスティン・ターナーの「フロンティア学説」、ロマン派の詩人キーツ、オズワルド・スペングラーの『西洋の没落』、T・S・エリオットの『荒地』を引用しつつ議論を繰り広げていると述べている。


[12]トムが、デイジーに対して手を重ねているが、第一章第二節でもジョーダンがニックの手を重ねる描写がある。これは、不穏な方向へと、手を握った相手を誘導していく、という描写なのである。その点では、その描写を見たニックが、彼がジョーダンとの振る舞いをブキャナン達に見出し、自己反省をしていたという解釈をすることもできる。


[13] Fitzgerald 2

If personality is an unbroken series of successful gestures, then there was something gorgeous about him, . . . it was an extraordinary gift for hope, a romantic readiness such as I have never found in any other person and which it is not likely I shall ever find again. (2)

(もし個性が途切れることのない連続した身振りの総体であるならば、何か豪華絢爛たるものが彼にはあった…それは希望を見いだす非凡な才能であり、ぼくが他の人の中にはこれまで見たことがなく、これまでも二度と見いだせそうもない浪漫的心情である。)(傍点引用者。翻訳に当たって野崎孝氏の訳本『グレート・ギャツビー』を参照している。)


 イギリスの作家ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare, 1546-1616)の『マクベス』(Macbeth 1606)では、


人生は歩く影法師、あわれな役者だ。束の間の舞台の上で、はでな身振りで動き回ってはみるものの、出場が終われば、跡形もない。白痴の語るお話だ、何やらわめきたててはいるものの、何の意味もありはしない。(シェイクスピア 383)


『マクベス』には、人生について以上のようでしかない、と述べてあるが、ギャツビーの希望を見いだす才能というのは、それを超えたものである。どこまでも理想に対して、自己を投機していくことをやめない点が、彼の最大の美点である。

 なお、翻訳に当たって参考にした日本語の訳本について述べておくと、最も私が信頼できると考えるのは、野崎孝氏の訳である。学術的にもミスが少なく、原文を正確に、ニュアンスをはっきりと伝えている点で優れている。小川氏の訳は、思い切った訳をしているという感がある。原文通りではないものの、現代の物語として伝える、ということが狙いであるならば、それが見事に達成された訳であろう。ただ、私にはギャツビーが時代遅れの勘違い男である、というとらえ方ができなかったので、小川訳を採用することはなかった。参考文献には挙げていないが、村上訳は、私が読み始めた最初の訳である。小説家としての翻訳ということを、氏も述べているが、まさにその通りの少し自身の解釈が入った訳になっていた。結果的に私は野崎訳を採用し、もし筆者の論文を読むに当たって、ということであれば、野崎訳を私は勧めることになるだろう。


[14]宮脇氏は、自身の著書のあとがきで次のように述べている。


ただ、サブタイトルになっている「ダークブルーの夢」は、二十年以上前から抱いていた構想である。絵を描くことを趣味とする同僚と話しているとき、「『グレート・ギャツビー』の色は何色だと思う?」と突然聞かれた。一瞬の間のあと、僕は思いついた色を答えた――「ブルーだと思います」。「そうだよ。それがわからなければ、この小説は理解できないよ」。(宮脇 189-190)


この評論を読む前から、私には、緑の灯火が意味する可能性の一つに、心当たりがあった。青い芝を象徴するギャツビーと、黄金娘のデイジー。その色が組み合わされば、緑になる、というものだ。緑の灯火とは、二人が熱く溶け合い、愛し合うメタファーだと、未だに私は、この論文を書き終えた後でも思っている。


[15]しかしながらそれでも、何故デイジーに惹かれたかを述べなければ、ギャツビーの人間的な魅力は、出てこないだろう。宮脇氏の主張を参考にしたい。

 こうしてギャツビーは自分の城の中で一人その夢を大切に育ててきたのだ。もはやそこに入りこめる者はない。…ただひとつだけ、その堅固な要塞のような城の中に入り込めるものがあった。それはデイジーの声だ。『ふわふわと揺れるほとんど発熱に近い温もりを持つ声』。それは『不死の歌』であった。…それはオランダの船乗りにささやきかけるアメリカの大地の音に似たものだったのだろうか。…この声はギャツビーの夢を音声化したものであるという解釈もできそうだ。それが結局は『金の音』に聞こえるまでに変化してしまうのだ。(宮脇 82、傍点引用者)


 ギャツビーは、根っからの神話的人物なのである。彼には、普通の人が聞こえない、神秘的なデイジーの声のトーンを、聞き取ることができるのだ。それを聞いてしまったら、彼はもう一歩も引くことができない。開拓者たちと同様に、自分の力の及ぶ限りを以って、夢に挑み続けるしかなかった。彼は、自分で彼女を愛していると気付いて驚いた、と8章で言っているが、そこには彼の神話的人物性が絡んでくるのかもしれない。

 しかしギャツビーにはギャツビーで、厭らしさがなかったわけではない。ギャングとつるみ、悪徳商法をしていただけではない。次のことを野間氏は主張している。


ギャツビーが殺される前日に、デイジーに「あなたを愛していなかった」とトムに言わせることを求めたのは、ギャツビーが恋の狂気に囚われていたからではない。まして「過去は繰り返せる」という極端にロマンティックな精神の発露としての要求でもない。そのことばは、ギャツビーの方をいつも愛していたことを宣言してほしいという、ギャツビーの願望を表している言葉だった。愛のレトリックだったのだ。さらにその言葉も、デイジーがトムと離婚を手早くはたすために考えられた口実だった可能性すらある。さらにギャツビー自体が、そのことばを言うことをデイジーに求めたのは、一度は自分を見限りトムと結婚して子どもまで作っているデイジーにある種の代償を払わせる意味もあったと考えられる。(野間 334-335)


ギャツビーの本来の性質には、野暮で軽薄な面も確かにあった。このようにニックのバイアスを取り除くと見える彼の矛盾は、確かに存在する。実際には滅茶苦茶に過ぎていくのに「痛々しい論争」(tragic argument)(145)と表現しているところから、このギャツビーの欠点にニックが気付いていた可能性はある。したがって「僕が心からの軽蔑を示すあらゆるものを体現していたのがギャツビーという男だった」(”Gatsby, who represented everything for which I have an effected scorn”)というのはそのようなギャツビーの人格を指しているのかもしれない。あるいは、このように言うこともできるかもしれない。陳腐なほど、情けない人間であるのにも関わらず、ニックから見たある点での彼は、確かに騎士道的精神を持つ点でヒーローであった、と。


[16]宮脇氏は次のように述べている。


 三十歳を迎えて将来を悲観的に見ていたニックが、ここからギャツビーの激しい夢の実態を、今度は自分の中に感じ始めるのだ。それはもはやギャツビーの「私事」ではなく、ニックの中にも芽生え始めている。いや、それは消えかかっていたものがよみがえってきたと言うべきかもしれない。ここでギャツビーがずっとその胸に秘めてきた「しみひとつない夢」を受け継ぐこととなるのだから。(宮脇 119)


このように、宮脇氏のこの作品の解釈の説明は、非常に情緒的で私たちの胸に訴えかけてくるものがある。氏の著書は非常に高く評価されるべき一冊である。


[17]Fitzgerald 序文

Then wear the gold hat, if that will move her; If you can bounce high, bounce for her too, Till she cry ‘Lover, gold-hatted, high-bouncing lover, I must have you!’

Thomas Parke D’ Invilliers

ならば黄金帽子を被ろうぜ、それで彼女が感動してくれるなら

もしハイジャンプできちゃうなら、彼女のために跳ぶんだぜ

彼女が「愛しい人、黄金帽子のハイジャンプの愛しい人、

あなたをものにしなくては!」と叫ぶまでは


 ここ読み取れる関係は、女性に対して振り向いてもらうために、ジャンプ、すなわち成功の夢を叶えるという、危険を顧みない男性の勇気と、それに対して、簡単に感動してしまう女性の関係である。しかし、いつ女性が黄金帽子に幻滅したり、いつ男性がジャンプに失敗して、足を踏み外したりするかわからない、という危なっかしさも、同時に示している。しかしそれが、私たちが渡っていかねばならない世界なのである。

 この契機に文献を紹介しておく。『『グレート・ギャッツビー』の言語とスタイル』は長瀬氏が作品の草稿という資料に基づいて、言語に注目し主に文体について述べた著作である。これは、もちろん統計の取り方にもよるが、言語についての信頼できる数字である、統計というデータを基に論じた著作である。その著作には、この作品が生まれるまでのエピソードについて、「2番目の、そして非常に重要なことですが、この本にはさして重要な女性人物が含まれていません」というほど、男性中心の物語であったのである。したがって、ヒロインの不道徳な空虚性が必要だったのである(p75)。このように述べている。

 この小説においては、ヒロインとは、デイジーとジョーダンに、(もし含めるならマートルにも、)当たるわけである。男性の理想になりそうな素敵な女性は一人もいない。この序文は、自らの行動によってそうした、くだらない女性に価値を見いだしていくことの重要性を説いている、と私は解釈している。


[18]誤解を生む危険性を承知の上で、どうしても私が明らかにせざるを得ない、この論文のモチーフの存在を紹介したい。それが、星野源氏(1981-)の「化物」(CD, 2013)という曲である。音楽のテンポの良さや、前向きな歌詞から、この曲を聴いた私たちは、自然と烈しい想いがこみ上げてくる。歌詞の一部を抜粋する。


誰かこの声を聞いてよ

今も高鳴る体中で響く

叫び狂う音が明日を連れてきて

奈落の底から化けた僕をせり上げてく


ギャツビーのデイジーへの感情は、全身で感じられ、押さえらないほど強くこみ上げてくる。そのような心の中の声は、唯一聞こえる人に届いている。その人物とは、ニックである。ギャツビーの思いは、ニックの中に強く反響する。ギャツビーにとっても、ニックにとっても、その思いの籠った自分は、昨日の自分と全く違う存在である。そんな自分が、この世界の運命を手繰り寄せる。たとえリスクを冒し、失敗したとしても。この世とは思えないような世界からあふれてくる、限界などはるかにを超えるような烈しい想いが、今の自分を形成し、明日を彼らは生きるのだ。ギャツビーの烈しさ、そしてそれを受け継いだ新たな自分こそが、ニックにとっての「化物」なのである。この曲からあふれる「烈しさ」によって、私の書いた論文は生まれることとなった。


[19]W・J・ハ―ヴェイ氏が著した”Theme and Texture in The Great Gatsby”(「『偉大なるギャツビー』における主題と肌理」)は、この作品における、クラシックな評論である。

 氏は、一九五〇年代までのこの作品の先行研究をまとめた後、主に”restless”から”drifting”という単語に至るまで、この作品をそれらの概念によって読み解くことができる、ということを主張する。

 氏は55頁にまず注目し、人間関係の希薄さ・”intensity”の多義性・風刺の技巧・言葉遣いの対照性について分析し、そこから”restless”という言葉がこの小説を象徴していると言う。そのことを物語の序盤のニックやジョーダン、トムの描写に当てはめて、証明する。”restless”が象徴するこの小説の要素とは、以下のようなものである。

 ①船のイメージ、並びに海のイメージ(2-3, 8-9, 192)②この作品が時間について扱った作品であること(「過去は繰り返せない」)③ギャツビーが象徴するせわしなさ(68, 70-71)④この小説とは、ニックに対して何が起こるかを書いてあること⑤”restless”から”drifting”に至るまでにアメリカンドリームという夢が示されていること。そして結論として、それらがこの小説の肌理であり、その肌理を作り出している文学的表現とは、まさに糸のような特別な肌理のようなものである、ということである。

 氏の論文の功績とは、一つの表現に注目し検証していくことで、抽象的な概念が、具体的かつ明快にまとめ上げられていることである。それに加えて、基本的な議論についても、論理展開の中に組み込み、実体のある普遍性を持った論を作成している点にある。

 論文作成の中で次第に、氏の”restless”への注目の仕方を模倣することで、自分の論文を書くスタイルを形成したい、と学部生の筆者は考えるようになった。また氏の論文の分析には、例として”intensity”が挙げられているものの、それは主題にはなっていない、ということに気付いた。そこで、私こそがやってやろう、と刺激を受け”intensity”という語に取り組んだ次第である。

 しかし氏が取り組んだように、用例全てに当たったというわけではなく、ただ8章の「ギャツビーの観念の烈しさ」という箇所に絞って、まさに星野源氏の曲を連想しながら、それがこの作品の主題である、と筆者は主張したのである。

 作中に、“intensity”は五回出てくる。まずギャツビーのデイジーへの気持ちの烈しさを示した、第二章・第三節の引用である。次に私が論文の骨子として位置づけている、ギャツビーの計り知れない烈しい観念についての第三章・第二節で扱った箇所である。三カ所目は、3章で興味深げに若い俳優に声をかける男性についての55頁である。四カ所目は、7章のT・J・エクルバーグ氏の執拗な視線の威力を示す131頁であり、五カ所目が、8章のギャツビーにとっての息を呑むような烈しさを与えるものとは、デイジーが住んでいること自体だとする157頁である。

 ”intensity”とは氏も述べているように、多義的な言葉である。一言で表しきれないほど、その言葉に沿って研究するという論を完成させることは、困難を極める。現時点での、筆者の力量や確保できる時間を考えると、卒業論文としてのこの仕事は、これ以上不可能である、と筆者は判断した。筆者は、ハーヴェイ氏のように、具体的な議論を以って論理的に、なおかつほぼ全ての議論を網羅しながら、体系的にまとめ上げた論文を作成する、ということに関しては、達成できなかった。

 筆者の功績としては、”intensity”という語について注目した点、そして私が取り上げた、その語の一側面における概念である”human intensity”が、私たち社会に生きる人間における、「普遍性」にまで達している、という主張をした点だと考えている。


参考書目


Ⅰ.第一次資料

Fitzgerald, F. Scott. The Great Gatsby. England: Penguin Essentials edition. 2011

Ⅱ.第二次資料

Harvey, W. J “Theme and Texture in The Great Gatsby”. English Studies XXXVIII, February 1957, pp12-20

アレン, F、L著『オンリー・イエスタデイ 1920年代・アメリカ』藤久ミネ訳、筑間書房、1987年

『偉大なるアンバーソン家の人々』 脚本・監督:ウェルズ・オーソン, 出演:ジョゼフ・コットン、ドロレス・コステロ, 音楽:バーナード・ハーマン DVD. インターナショナル・プロモーション, 1942年

『華麗なるギャツビー』 脚本:バズ・ラーマン 脚本:バズ・ラーマン, クレイグ・ピアース, 出演:レオナルド・ディカプリオ, トビー・マグワイア, キャリー・マリガン,ジョエル・エドガートン, 音楽:クレイグ・アームストロング, DVD. ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズ, 2013年

シェイクスピア,ウィリアム著『シェイクスピア集 10 世界文学全集』小津次郎訳筑間書房、1976年

諏訪部浩一『アメリカ文学入門』三修社、2013年

セルバンテス, ミゲル、デ著『ドン・キホーテ[正編一]』永田寛定訳、岩波文庫、1988年

竹林滋編『ルミナス英和辞典 第二版』 研究社、2005年

太宰治『走れメロス』 新潮社、1967年

長瀬恵美『『グレート・ギャツビー』の言語とスタイル』 大阪教育図書、2013年

野間正二『『グレート・ギャツビー』の読み方』 創元社、2008年

「化物」 作詞・作曲:星野源 『stranger』 CD. ピクターエンターテイメント, 2013年 <http://www.kasi-time.com/item-66461.html> 最終更新日時: 2017年1月25日

フィッツジェラルド, フランシス、スコット著『グレート・ギャッツビー』小川高義訳、光文社文庫、2009年

フィッツジェラルド, フランシス、スコット著『グレート・ギャツビー』 野崎孝訳、新潮社、1974年

ヘミングウェイ,アーネスト著『われらの時代に・男だけの世界』 高見浩訳、新潮社、1995年

宮脇俊文『『グレート・ギャツビー』の世界――ダークブルーの夢』 青土社、2013年

村上春樹『ノルウェイの森(下)』 講談社、1987年

リーハン, リチャード著『『偉大なギャツビー』を読む――夢の限界』 伊豆大和訳、旺史社、1995年

ロッジ, デイヴィッド著『小説の技巧』 柴田元幸訳、白水社、1997年



以前から漱石には興味があって、小説は読んできましたが、評論は初めて。

しかし少し読んでみて、これは面白いと感動。

少しずつ読んでみようと思いました。

文学を文学として(構造主義とかそういうとらえ方ではなく)ここまで体系的に扱った研究って、ないんじゃないだろうか。


『文学論』


第一編 文学内容の分類

 第一章 文学内容の形式

 第二章 文学内容の基本成分

 第三章 文学内容の分類及びその価値的等級

第二編 文学内容の数量的変化

 第一章 Fの変化

 第二章 fの変化

 第三章 fに伴ふ幻想

 第四章 悲劇に対する場合

第三編 文学内容の特質

 第一章 文学的Fと科学的Fとの比較一汎

 第二章 文芸上の真と科学上の真

第四章 文学内容の相互関係

 第一章 投出語法

 第二章 投入語法

 第三章 自己と隔離せる聯想

 第四章 滑稽的聯想

 第五章 調和法

 第六章 対置法

 第七章 写実法

 第八章 間隔法

第五編 集合的F

 第一章 一代における三種の集合的F

 第二章 意識推移の原則

 第三章 原則の応用(一)

 第四章 原則の応用(二)

 第五章 原則の応用(三)

 第六章 原則の応用(四)

 第七章 補遺


手元に『文学評論』もあるのでまたこちらも。

そのうちまた更新します。

学期末レポート

The Remains of the Day論

――プロとアマチュア


1.序論

はじめに

 おそらくこれが、私が学生で書く最後のレポートである。

 あらすじではないけれど、この作品をどのように読んだか、という私の読み方を紹介する。そして本論に入り、原文[主に三つ]を引用しながら、私がこの小説を読んで感動したことを、出来る限り論理的に伝えたい。

歴史的コンテクスト

 この小説を読むに当たって、また授業で提示された、歴史との関わりというコンテクストは、何も述べずに終えてしまえば、私が授業を受けたという証明にならないと考える。そこで以下、ナチズムと関わるドイツ史について、またダーリントン卿のモデルとされる[ 「書評54:カズオ・イシグロ『日の名残り』(読書)-読書のあしあと-Yahoo!ブログ」より

…イギリス外交史の細谷雄一は、このダーリントン卿のモデルはチェンバレン兄弟だろうと予想しているが(…)。

このような記述があったが、URLは古く、資料がなかったため、信頼できると思われるwebページから情報を集めた。

]チェンバレン兄弟を中心にイギリス史を簡単ではあるが述べることで、私のレポートの中心ではないのだが、授業で提示されたことの答えということにしたい[ 私は2016年前学期に、愛媛大学吉田正広先生の第一次世界大戦前後、1930年代に入る前までのヨーロッパの歴史についての授業を受けていた。しかし使用したテクストを誤って処理してしまったため、また私がこのレポート提出日に帰省しなければいけないということで、原典を示すということができない。大変恐縮だが、ご理解いただきたい。

]。

 第一次世界大戦が終わったのは1918年11月である敗戦国であり、戦争の発端となったドイツは、ハプスブルク朝オーストリアと完全に切り離される。そして待っていたのは多額の賠償金であり、激しいインフレが起こった。1924年、すなわち小説内でルイス議員が登場する一年後に、ドーズ案が可決され、ドイルの賠償金支払いが一時ストップする。そしてアメリカがドイツに貸付け、ドイツがフランス、イギリスに賠償金を払い、フランスはイギリスに返済し、イギリスはアメリカに返済するという流れになった。作品のルイス議員の発言、そしてダーリントン卿のドイツへの憐れみということから考えてみると、二日目朝の描写というのはこのプロであるアメリカがヨーロッパのテコ入れをするというドーズ案を思わせる。

 ドイツ国民は戦時中、兵隊が「かぶらの冬」と呼ばれるような経験もし、愛国的労働奉仕法という、17歳から60歳まで全男性に労働を命ずるという、無茶な法律を課されるほどで、国民は疲弊しきっており、その中でヒトラーが支持されるようになったのは不思議ではない。

 一方ドイツの対照として挙げられるイギリスは、戦争中もビジネス・アズ・ユージャルを貫いた。また戦後は、伝統的な島国であることから生まれるバランス・オブ・パワー(勢力均衡)という思想で、一国に力が集中するのを避け、また一国が瀕する状況を嫌ってきた。その思想がおそらくダーリントン卿に受け継がれていると言えるかもしれない。

 イギリスでは1916年にロイド=ジョージ挙国一致内閣が生まれる。21年にしかし24年には第一次マクドナルド内閣が発足し、自由党は弱っていき、保守党と労働党政権が続くことになる。26年にイギリス連邦(本国と自治領の平等)構想を目指してイギリス帝国会議が行われ、最終的に31年にウエストミンスター憲章が出される。端的にはイギリス帝国の解体、さらにはイギリスの植民地の放棄を示すものであり、民族自決の法則に基づいたものだ。現代から見るとある意味でアマチュアな動きと言えるかもしれない。

 ラインラントにドイツが進出したのは36年のことである。戦後のヨーロッパ大陸の行く先を示した1919年6月のヴェルサイユ条約を、これは完全に破ったことになる。しかしその前年、イギリスには英独海軍協定が結ばれている。イギリスも労働党が進出し、より親密な関係を、という流れはあったのである。

 ヒトラーは19年にドイツ労働者党を結成する。20年にはNSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党、ナチ党)と改称する。32年に第一党となる。ナチ党が掲げたスローガンとしては、ヴェルサイユ体制の打破、反共産主義、ドイツ民族の優位性とユダヤ民族の排斥、公共事業と軍需産業による失業者の救済、領土の拡大であった。日常生活にナチズムは入り込んでいく。1936年にはベルリンオリンピックが開催され、ドイツ民族はそうしたことから自信を取り戻していくのだった。極めつけはアウシュビッツ刑務所である。毒ガスで収容したユダヤ人を殺していった。

 歴史的なこうしたナチズムと呼ばれる思潮は、「全体主義」として現代知識人は警戒している。カリスマのある人物の過激な政策によって、何かが悪に喩えられ、ナショナリズム(国家主義)という、自分のアイデンティティを強い自分の国に求めさせるというものである。日本の場合でも全体主義の思潮があったとされ、『はだしのゲン』にあるような状況であった。

 ダーリントン卿のモデルとされる、チェンバレン兄弟について。兄のオースティン=チェンバレンは1863年、末っ子のネヴィルの6年前に生まれた。オースティンは25年のロカルノ条約でドイツを国際連盟に加盟させ、独仏の関係の緩和に起因した人物として知られる。そのことで彼はノーベル平和賞を受賞している。ダーリントン卿の名誉はここからきていると言っていい。

 ネヴィルはしかしながら、この小説の後期、30年代、1938年のミュンヘン条約で独伊の融和政策を取ったことで歴史的に批判される人物である。Wikipediaには次のように書かれている。ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与え、ヒトラーに対し、イギリスから近隣諸国への侵攻を容認されたと勘違いさせた」として非難されている。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、第二次世界大戦を経た現在では、専門家並びに一般は強く批判されることが多い。

 エドワード8世は離婚歴のあるアメリカのウォリス・シンプソンと結婚し、ウインザー侯爵としてわずか一年足らずで退位した。ナチスの熱狂者であった、と作中で描かれており、授業ではその関りで退位したという話も出た。

 エドワード8世の人生と、スティーブンスとミス・ケントンの関係が、この小説では臭わせるものがある。スティーブンスはミス・ケントンを引き留め、自分の職務を全うせずに、歴史的に侯爵として称えられるエドワード8世のような道もあったのである。しかし、彼はその道を選ぶことを当時は考えもしなかった。つまり分岐点はあったのだ、一本道ではなかったのだ、ということを示している。

この作品をどのように読んだか

 Remains of the Dayの土屋訳には解説がついていて、旧仮名遣いを用いて丸山氏が提示した読み方がある[ 訳本の解説者の丸山才一は次のように述べている。

 イシグロの方法はさう[英雄を従僕の眼で見る、あるいは英雄崇拝的な方法]ではない。彼のスティーブンスはダーリントン卿に心服してゐた。尊敬すべき大物だと信じ切ってゐた。つまりダーリントン卿は従僕にすら軽蔑されない偉大な存在だった。さういふ、敬愛といふよりはむしろ畏怖の対象である貴族への評価が次第に崩れてゆく、そのいはば公的な悲劇となひまぜにして、この従僕はまた私的な悲劇を持つ。女との関係を回顧して、自分が勿体ぶつてばかりゐて人間らしく生きることを知らない詰まらぬ男だつたといふ自己省察に到達するのだ。この公私両方の認識の深まり方に付き合ふのが『日の名残り』を読むといふことなのである。(土屋 363-364, 傍点引用者)

 ここで言っているのは恐らく、大野先生が指摘された、父の死とケントンの別れという、二つのこの小説の核となるスティーブンスの、自分に対してついた嘘についてである。同じクラスを受講している角田さんとは、スティーブンスが六日目にケントンと会うときには、それまでの自分と異なり、自分の思ったことを素直に言えている、正直になれていますよね、という話題になった。村上春樹の『ノルウェイの森』の引用を出して説明したい。

もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみ言うと思ったことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。[中略]結局のところ――と僕は思う――文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより彼女を理解するようになったと思う。(村上22)

この小説は五日目に起こったことを六日目に書き綴っているという形式になっている。おそらく五日目に思い浮かべたことをそのまま表すとしたら、それはあまりに複雑な思いにとらわれたスティーブンスの姿があったことだろう。浮かんできたのはきっと、ダーリントン卿の終焉であり、主人のみっともない姿を描写することになるので、その日には忠実なスティーブンスには書けなかったのではないか。一日空けることによって自己認識が深まり、認識が新たになった。その認識が本物かどうかは別として。そして最終的に前向きになろうと思えて、旅は終わりを迎えるのである。スティーブンスはもう年であり、長くない人生であるが、それでも前向きになって戻ることができたのなら、悪くない人生ではなかろうか。少なくとも悪い年の取り方ではないと考える。

]。けれどもこれよりもっと具体的に作品の「流れ」を掴まなければ、この作品を読んだことにはならない。少なくともスティーブンスの気持ちをわかったことにはならない。字数に関してはオーバーしてしまうが、その点はご了承いただければと思う。

 なお、私はできるだけあえてミス・ケントンとの関連ではなく、あえてプロ(専門家)とアマチュア(素人)という対比でこの作品を捉えようと思う。

***

 彼、スティーブンスが旅に出るのは、ダーリントン・ホールの人員不足解消のためにミス・ケントン(ミセス・ベン)を訪ねることにあった。言い出すまでの件はずいぶんと長いが、ファラディ氏にからかわれて以降の彼は、特に語らない。旅立つ際にすっきりして旅に出ており、また景色を十分に楽しんでいる。

 景色を楽しんでいるのは、そのように指示されていたから、と言ってしまえばそれまでだが、外の景色に触れることで、彼がダーリントン・ホール内では考えなかった様々なことが、頭に浮かぶようになる。ダーリントン・ホールという、時間の流れが止まっているかのようなところから出された彼は、現実の空気の流れる外の景色を受けて、実際リフレッシュされている。

 そこで彼の頭に浮かんだのは、「偉大さ」(greatness)であり、「品格」(dignity)であり、それを象徴する彼の父と、その父を超える際の自分である[ 106より試訳

「[中略]さて、私たちは全く率直になっているので、私の率直になろう。あなた方ここにいる紳士よ、失礼だが、あなた方は、神経質な夢想家の一団だ。そしてあなた方が世界に影響を与える大きな情勢に干渉することを主張するなら、あなた方は実際ご挨拶ですよ。こちらの優れたわれらが主人を例にとりましょう。彼はいかがなものか?彼は紳士だ。ここにいる誰も、私は信じているが、賛成しないということはないだろう。伝統的な英国紳士だ。上品で、正直で、善意の方だ。しかし閣下は素人だ」。彼は言葉を切ってテーブルを見渡しました。「彼は素人で、今日の国際情勢はもはや紳士のものではない。ヨーロッパのあなた方はすぐに確信することでしょう。あなた方上品で、善意の紳士は、一つお尋ねするのだが、あなたの周りのあらゆる物事が世界の土地の種がどのようになってきているかいかにお考えか。あなた方の高貴な本能が働く範囲は超えてしまっている。しかし当然、あなた方はここにいあるヨーロッパの方々はまだ知らない。我らの良き主人のような紳士は自分たちの理解できない物事について干渉することがいまだに自分の仕事だと思っている。たくさんのたわごとがこの二日間飛び交った。善意の、神経質のたわごとだ。ヨーロッパのここにいるあなた方は、ご自分の情勢を経営する専門性を必要としている。乾杯、紳士たち。乾杯させてください。専門家に」。[中略]

あなたがアマチュアリズムと説明するものは、私たちのほとんどがいまだに「名誉」と呼ぶものだと私は考えます」]。そこに至るまで、ずっと彼はとうとうと職業意識(professionalism)を浮かべている。そこで転機となるのが、ダーリントン・ホールに観光に来た夫人に、ダーリントン・ホール自体がまがい物扱いされ、自分自身も本当の執事ではなかったとされた思い出が浮かんだことである。

 その次の日から彼の頭に浮かんだことは、自己の正当化である。間違っているのは自分ではなく、周りの人々である、というものであり、これが「信頼できない語り手[

これはウェイン・ブース(Wayne C. Booth, 1920-)によって一九六一年に『フィクションの修辞学』によって提唱された小説の手法である。これは後にフランス現代思想の構造主義と結びつき、ナラトロジーと言われる語りの手法への発展していくことになる。デイヴィッド・ロッジは次のように述べている。

 「信頼できない語り手」とはつねに、自らが語るストーリーの一部をなす登場人物である。信頼できない「全知の」語り手というのは、ほとんど論理的矛盾であり、きわめて特殊な実験的テクストにおいてしか存在しえない。一方、「全知」ではない、登場人物でもある語り手にしても、まったく一パーセントも信用できないということはありえない。もしその人物の言うことが全部明らかに嘘だとすれば、それは、我々がとっくに知っていること――すなわち、小説とは虚構の産物であること――を再確認させるに過ぎない。物語が我々の関心をそそるためには、現実の世界と同様、小説世界内部での真実と虚偽を見分ける道が与えられていなくてはならない。

 信用できない語り手を用いる意義もまさに、見かけと現実のずれを興味深い形で明らかにできるという点にある。人間がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを、そのような語り手は実は実演してみせるのだ。そうした欲求には、必ずしも本人の自覚や悪意が伴っている必要はない。(ロッジ211)

 wikipediaの情報であるので参考に過ぎないが、この小説ではスティーブンスは記憶が曖昧な語り手、と紹介されている。しかし、自分の主義から明らかに隠している情報や、自分の気付いていない自分自身の思いなどがあるので、単に記憶が曖昧なために信頼できないという評価を与えるのはズレていると私は考える。

]」と言われる文学の技巧である。まず否定するのが、世間のリッベントロップ氏とダーリントン卿の扱い方である。とりわけダーリントン卿は、ナチス・ドイツの手先ではなかったと強く主張する。そうして夜を迎えても彼は自己正当化の回想を続けるが、次第にミス・ケントンとの思い出もそこには含まれるようになる。決定的だったのは彼が読んでいる小説の内容について迫られ、プライバシーを侵害されたことである。この時彼は、長々と自分が正真正銘、職業意識からその読書をしていたと語り続けるのである。

 その日の最後に、彼はスミス氏から政治的主張を受ける。反論を迫られるが、彼は何も言わない。それを機に再びダーリントンホールでレナード卿に同じように食って掛かられたことを思い出す。一日の終わりに彼は、自分の考える意味で偉大」な「品格」のある執事であることが大切だと顧みる。

 しかし、それでも正当化できない思いは彼には確かにあったのだろう。四日目を迎え、ミス・ケントンとの再会が近づいてくる。するとここ二十年間消えなかった記憶の断片が、彼女を契機として蘇る。彼女が泣いているのだ。その日は二つの出来事が同時に起こった日だった。ダーリントン卿は利用されているが、執事であるスティーブンスは何もしないのか、とカーディナル氏がやってきて問う。そしてミス・ケントンは知人との結婚の話題を持ち出し、ヒステリックになる。スティーブンスはそれらに対し結果的に平然と、いや冷淡に処理し、最終的に彼は、大勝利感を得て、その時の思い出を締めくくる。

 彼は執事であることを理由に、自分を殺している。殺していた感情が、休暇によって解きほぐされ、現在の空気に当たる。自分が信じていたものが過去のものになってしまった、あるいは時代遅れのものになってしまった、もっと言えばまがい物でしかなかったという哀しさを、彼は感じる。四日目の終わりに感じた、感じるべきではない大勝利感に、彼は大きな戸惑いを覚えていることが読み取れる。

 タイトルである”Remains of the Day”が表すように、この小説は朝が来て、夕方が来て、夜になる。夜になる、というのはすなわち人生の最期を表す。どんな人でも老いて、輝いているのは一時である。スティーブンスの人生の最高の時期というのは、彼の父のように、もう過ぎ去ってしまった。今の彼の状況はまさに「日の名残り」である。そのことが耐えられないほど哀しい。ミセス・ベンも彼の元に来ることはなかった。しかし彼は、過去ばかり振り返っていても仕方ない、と考え帰路へ向かうのである。

2.本論

 「この作品についての読み方」が長くなってしまったが、本論へと移り私の主張したいことを具体的な分析を基に述べたい。それは、スティーブンスの過去の出来事、物事についての自己正当化に関してである。

 その中で、よく指摘される「信頼できない語り手」という手法についてみていくことにもなるだろう。

 

引用1

 これはダーリントン・ホールにいた時、何故はっきりと物事を言わないのかファラディ氏に尋ねられて、スティーブンスが答え、そして回想にふける様子を描いた描写である。今となってみれば、再考の余地があるとスティーブンスは考え、二日目の午後に感じたことを思い浮かべるのである。

(1) ‘It does seem a little extreme when you put it that way, sir. But it has often been considered desirable for employees to give such an impression. If I may put it this way, sir, it is a little akin to the custom as regards marriages. If a divorced lady were present in the company of her second husband, it is often thought desirable not to allude to the original marriage at all. There is a similar custom as regards our profession, sir.’

. . . (2) I believe I realized even at the time that my explanation to Mr Farraday -- though, of course, not entirely devoid of truth -- was woefully inadequate. But when one has so much else to think about, it is easy not to give such matters a great deal of attention, and so I did, indeed, put the whole episode out of my mind for some time. (3) But now, recalling it here in the calm that surrounds this pond, there seems little doubt that my conduct towards Mr Wakefield that day has an obvious relation to what has just taken place this afternoon.(131-132 italics mine)

(1)「あなたがそのようにおっしゃるなら、それはいささか極端に思われます。しかしそれは、召使たちにとって望ましいとしばしば考えられることです、そのような感銘を与えるということに際して。もし私がこの流儀を申し上げようとしましたら、閣下、それは結婚に関しての習慣と類似しています。もし離婚された再婚した連れとご婦人がいらしたら、元々の結婚のことがほのめかされるのは、全く望ましくないことでしょう。職務についても、同様の習慣があるのです」

…(2)私はそのとき、ファラディ様に説明したその時でさえ、――もちろん真実を全く欠いているというわけではありませんが――悲惨なくらい不十分でした。しかし、私には考えるべきことがあり、容易にそうした事情を非常に大変な注意を払うことはありませんでした。そして、そういうわけで、しばらく私は実に出来事すべてを忘れていました。(3)しかし今、ここの池を囲っている静けさでそれを思い出していると、私のあの日のウェイクフィールド夫人への振る舞いが今の後ちょうど起こったこととの明白な結びつきがあるというかすかな疑いがあるように思われます。

(1)ここでスティーブンスが出している喩えに関して、私はこの小説の一番のおかしさは、この「結婚」と「離婚した女性」に対しての扱いについての例の出し方だと考えているのだが、いかがだろうか。そもそも結婚していないスティーブンスが結婚を例に出すのもなんだかおかしい。そしてこの結婚の例は、ミス・ケントンへの慕情と合わせて考えると、明らかにスティーブンスの未練を感じさせる。だからこそスティーブンスは、「悲惨なほど不適切」だった、と思わずにはいられなかったのである。

(2)加えて、彼には考えることがあったため、そのことを思い出さなった、という言い訳を話している。注意を払わなかったのは容易なことで、すっかり忘れていた、と断言している。彼が注意を払っていたのは、ウェイクフィールド夫人に対してどう考えればいいのかわからないまま、贋作扱いされた事への怒りが先に来ていたのではないかと私は考える。

(3)表現の注目として、「明白な」と「かすかな疑い」という言葉は矛盾しているように受け取れる。池を見ていると、水に映った自分の姿が見える。反射されて見えるのは、もちろん虚像であるから、偽物の自分なのである。それを見ていると、そのような思い出がよみがえる、ということであろう。

 ここからは、結婚と結びついたミス・ケントンへの思いと、自分が贋作扱いされることへの無自覚な怒り、次第に見えてくる自己正当化の思いといったものが読み取れる。

引用2

 これは三日目晩の描写である。ミス・ケントンがスティーブンスの部屋に入ってきて、読書中のスティーブンスに迫るが、彼はケントンを追い払う。その後、スティーブンスは自分が「おセンチ」な恋愛小説を読む理由についてくどくどと自己正当化する説明の後半部分の回想である。

(1) But when I say this, I do not mean to imply the stance I took over the matter of the book that evening was somehow unwarranted. For you must understand, there was an important principle at issue. The fact was, I had been ‘off duty’ at that moment Miss Kenton had come marching into my pantry. (2) And of course, any butler who regards his vocation with pride, any butler who aspires at all to a ‘dignity in keeping with his position’, as the Hayes Society once put it, should never allow himself to be ’off duty’ in the presence of others. It really was immaterial whether it was Miss Kenton or a complete stranger who had walked in that moment. (3) A butler of any quality must be seen to inhabit his role, utterly and fully: he cannot be seen casting it aside one moment than a pantomime costume. There is one situation and one situation only in which a butler who cares about his dignity may feel free to unburden himself of his role; that is to say, when he is entirely alone. (4) You will appreciate then that in the event of Miss Kenton bursting in at the time when I had presumed, not unreasonably, that I was to be alone, it came to be a crucial matter of principle, matter indeed of dignity, that I did not appear in anything less than my full and proper role. However, it had not been my intention to analyse here the various facets of small episode from years ago. The main point about it was that alerted me to the fact that things between . . . (5) But as to just how much that incident contributed to the large changes our relationship subsequently underwent, it is very difficult now to say. There may well have been other more fundamental developments to account for what took place.(177-178 italics mine)

(1)しかしこのことを申し上げるに当たり、私は次のことをほのめかすつもりはありません。あの晩の、その本に関する件を引き継いだ立場が、いくらか正しいと認められないということです。というのもきっとわかってくださるに違いありませんが、問題になっている重要な主義・原理があります。実をいえば、私は「休憩中」で、ミス・ケントンは食料品置き場へ堂々と歩いていきました。(2)そして当然、自分の天職に誇りを認めるどんな執事も、「自分の立場をわきまえる品位」を熱望するどんな執事も、ヘイズ協会がかつて言ったように、決して他者を前にして「休憩中」になるのは許されるべきではありません。あの時歩いてきたのがミス・ケントンであろうと赤の他人であろうと、それは全く問題ではありません。(3)執事のどんな資質もその役割に宿るに違いありません。全く十分に、執事はそれが[執事の資質]たとえ、茶番劇の衣装でしかなかったとしても、それ[執事の資質]を脇に見捨てているとみられても、ある瞬間とある時単純にそれを再び身に着けている、と見られなければなりません。考える執事は自分自身の役割を自由に捨てることができるという状況はたった一つです。(4)それではお判りだと思いますが、理由もなく自分が完全に一人でいると推定されるとき、ミスケントンが急に現れた場合、私が完全にして適切な役割に他ならないのは、原理的な決定的な物事、即ち実に品位という物事であるように思われます。しかし私が、数年前の些細なエピソードをここで分析しているわけではありません。[注略]

(5)自分自身の思いつくことをまとめ上げ整理するという機会があった後、より適切な基礎に当たる我々の職業的結びつきを再編成しようと決心したのを思い出しました。しかしその出来事がどれだけ私たちの大きな関係が続いて耐えるということに起因するかについて、それは今申し上げるのは難しいです。何が起こるのかの説明のより基本的な発展があってもいいでしょうに。

(1)あくまでも自分は、「休憩中」であり、それを邪魔したケントンが悪い、ということを一貫してスティーブンスは主張する。しかしその休憩というのは、職業上の休憩である。プロとしての休憩である。ケントンとのおしゃべりや交流は、職業上のものであり、決してプライベートなものにはなり得ない、ということをスティーブンスは言っている。ここにはイギリス伝統の個人主義が読み取れる。

(2)”butler”という語が何度も使われることで、執事とは何たるものか、ということを必死にスティーブンスは主張しようとしている。彼が説くのは、プロとしての執事の在り方である。ミス・ケントンに対して素直に何の本を読んでいるか伝えずに、仏頂面を続けるのは当然のことである、と彼は言うのである。このような姿勢の人間が、結婚できるとは到底思えないのだが。

(3)”pantomime”というのは、なかなか面白い語である。もちろん一義的には、表面では何かの真似をしているけれども、よく見ればそれは、フリにしか過ぎない。素振りであることがすぐにわかってしまう。その点で茶番劇なのである。また、パントマイムとは、相手と自分との間に見えない壁を作る行為である。これより以前の描写にも、パントマイムという語を用いて執事が何たるかについて述べているが、プライベートとパブリックを、アマチュアとプロとを比較するうえで重要な表現であるということが分かる。なお、この表現はウィリアム・シェイクスピアの『マクベス』を参考にしていると考えられる。役割という語が何度も使われているが、役割を果たすのが執事の仕事だと言って憚らないのが、スティーブンスである。それはあくまでも身に着けるもの、独りである時にだけ脱ぎ捨てられるものだというのである。

(4)スティーブンスはおおよそ五頁に渡って本についての釈明、言い訳を続けていながら、それは大したこと出来事ではないのだ、と述べている。ミス・ケントンに対しての怒りとは、決して彼が述べているような、職業上の理由から、だけではないだろう。性的なものに対してのプライベートな部分を覗かれることに対しての恥ずかしい部分、それこそが彼の我慢ならなかった点であろう。

(5)馬鹿丁寧な表現をしながらも、スティーブンスはミス・ケントンに対して、あるいは無自覚なのかもしれないが、確実に思いを寄せている(少なくとも映画ではそう解釈されている)、あるいは思うところがあることが読み取れる。「職業的結びつき」でしかないと言いながらも、それはきっと職業を超えたものであると読み取ることは容易だろう。

 ここからは執事という職業に対する誇りと、それを理由にして、自分の”off duty”について言い訳するスティーブンスの考えが読み取れる。自分のプライべートに干渉されたことに対しての怒りの裏にある、ミス・ケントンへの何とも言えない思い、すなわち彼女とはパブリックに、公式に付き合っているに過ぎない、という強がりが見えてくる。

引用3

 これは三日目の晩の描写である。現実世界でミスター・スミスが強く自己主張をする。そこから思い出して、ダーリントン・ホール内で世界情勢について、からかって尋ねられたことを思い出す。ここでスティーブンスが主張しているのは執事としての自分の立場の問題である。それはまさに、難しい立ち位置(”tricky position”, 231)であり、言い訳を続けている。

(1)Please do not misunderstand me here; I don’t refer to the mindless sort of ‘loyalty’ that mediocre employers bemoan the lack of when they find themselves unable to retain the services of high-calibre professionals. Indeed, I would be among the last to advocate bestowing one’s loyalty carelessly on any lady or any lady or gentleman who happens to employ one for a time. (2) However, if a butler is to be of any worth to anything or anybody in life, there must surely come a time when he ceases his searching: a time when he must say to himself: ’This employer embodies all that I find noble and admirable. I will hereafter devote myself to serving him.’ (3) This is loyalty intelligently bestowed. What is there ‘undignified’ in this? One is simply accepting an inescapable truth: that the likes of you and I will never be in a position to comprehend the affairs of today’s world, and our best course will always wise and honourable, and to devote our energies to the task of servicing him to the best of our ability. . . . (4) Throughout the years I served him, it was he and he alone who weighed up evidence and judged it best to proceed in the way he did, while I simply confined myself, quite properly, to affairs within my own professional realm. And as far as I am concerned, I carried out my duties to the best my abilities, indeed to a standard which many may consider ‘first rate’. It is hardly my fault if his lordship’s life and work have turned out today to look, at best, a sad waste - and it is quite illogical that I should feel any regret or shame on my own account.(210-211 italics mine)

(1)ここで私を誤解しないでいただきたい。愚かな種の忠誠心について話す気はありません。二流の雇用主は気付いてみると、専門家の器量のサービスを失わないでいるようにできないでいます。実際、私は偶然その人を一時的に雇うことになった紳士淑女、主人の忠誠心を盲目的に授けることなど全くしそうにないです。(2)しかしながら、もし執事が人生において何かの価値、何らかのもの、何らかの人間であるなら、確かに、彼が自分の人生において自分の主人を探すのをやめたとき、彼が自分自身に言い聞かせねばならないときが訪れるに違いありません。「この私が見出すすべてをご主人様は高貴さ、憧れなどを体現している。私は今後彼の奉仕に自分自身を捧げよう」。(3)これは捧げるべき聡明な忠誠心です。この中にはどんな「不体裁なもの」があるのでしょう。それは、誰も今日の世界の偉大な情勢を理解する地位にはいないということ、ただ逃れようもない真実を受け入れています。そして私たちの最良の選択は、いつもご主人様に信頼を置くべきです。私たちが聡明で名誉ある、と判断し、私たちの能力のベストを彼への奉仕という仕事への力を奉仕するご主人様に。[中略]

(4)私がご主人様に仕えた数年間に渡って、彼がなされるがままに証拠に重きを置き、それを判断して前へ進みました。しかし私は自分自身、専門家としての領域の問題を、非常に適切に限定しました。そして私が関わる限りでは、私は自己の能力の限りで、自らの義務を実行しました。実に多くの人が「一流」と考える基準へと。閣下の人生と業績が今日では、せいぜい悲しい廃棄物のようになってしまったというのは私の過失ではありません。そして私がどんな後悔も辱めも私の説明に関して感じるべきでないのは、非常に筋の通らないことです。

(1)二流の雇用主と一流の雇用主の違いについて述べた後、あくまで執事とは専門家であるべきであり、専門家であることは当たり前であると述べている。しかし二流の雇用主に対しても、専門家として節度あるサービスを提供すべきであり、そのサービスをどう受け取るかは雇用主次第だと、彼は言っている。

 「二流の雇用主」ということで、彼はダーリントン卿が一流であることを改めて考えなおしているのだ。そしてスティーブンスには、今日において自分が時勢遅れの人間になってしまった、という意識が強くあるのである。そうしたことを主張する最後の一人になってしまったことを嘆いている。

(2)先のパラグラフに引き続いて、ダーリントン卿の素晴らしさをスティーブンスは述べている。執事をやっていて、何かやりがいがあるとしたら、それはこの主人に仕えていてよかったと思うとき以外にない、というのである。ここからは、どこかかつてのダーリントン卿ほどに心服することのできないファラディ氏への思いが感じられる。ここでは執事であることに負い目を感じていると読み取ることもあるいは可能かもしれない。

(3)先に述べた「愚かな種の忠誠心」と、ここで述べている「聡明な忠誠心」は異なる、とスティーブンスは言っている。どんなものかというと、今日の世界の偉大な情勢を理解する地位にはいないという自覚を持ち、ご主人様にすべてを捧げるだけである、という忠誠心である。それ以上の感情は必要ない、というのである。

 ここには、どこかキリスト教的な、神への崇拝のようなものが感じられる。信じる者は救われる、という理論である。不要な感情に身を任せることができれば、心の中は平穏でいることができ、やるべきことに集中することで物事は上手くいくというものである。

(4)数パラグラフ空いて、この結びにつながる。ここでスティーブンスは、自分の中の微妙な心持について述べている。自分ではダーリントン卿を慕う気持ちがあり、後悔も辱めも自分は受けるべきであるのに、素直にそれでいいんだ、と思えない。それも廃棄物であるかのようにスティーブンスは言っている。

 それは、自分がやってきたできる限りのことなので、それに関して全く自分に落ち度がない、ということである。「一流」だったのだから。そしてやっていたのは限られた専門領域のことなので、関係がないのだ、という。この姿勢を見ていて思い起こされるのは、ナチス・ドイツののアイヒマン[  小説と映画の比較として、スティーブンスの乗る車の違いが挙げられる。小説は米国のフォードであり、映画は独国のダイムラーである。

 映画ではダイムラーはお前によく似合う、とまで言われている。これはおそらく、アイヒマンとスティーブンスを類比させるという狙いがあると思われる。小説の場合はアメリカに覇権が移り、仕える対象がアメリカの主人に代わってしまったということの象徴としての役割をフォードは果たすように思われる。ちなみにフォードは、一九二〇年代に大きな売り上げを記録した、大衆的な自動車である。このことからも、伝統的な屋敷に仕えていたスティーブンスの高貴さが損なわれてしまっている様子を感じ取ることができる。

 また映画では、小説の描写で記憶の中で想像したに過ぎないことをはっきりカメラが示してしまう傾向がある(例:スティーブンス・シニアの転倒、ケントンのお相手とのロマンス等)。人間ドラマというよりもむしろ、ラベルに貼られているように、ラブロマンスという向きが強い。演じているアンソニ―・ホプキンス氏の振る舞いにも、全く執事という専門家としての絶対的意志というものだけではなく、振る舞いからはかすかに、けれども確かにミス・ケントンへの慕情が伝わってくるようになっている。特に私が指摘したいのは、私が第二節で取り上げた”off duty”の際にプライベートを侵害されたときのスティーブンスの様子である。その場面での自己弁護は小説でなければ絶対にできない、深い味のある描写であると私は見ている。どちらかというと小説の方が、読み込んでいく中で浸み出てくる深みはあるという風に私は考えている。

]である。仕事だからいかにうまく仕事をするか、ということだけを考え、残虐な行為を何とも思わなかったアイヒマンと類似する点が見受けられる。ただ役割が違うだけで、本質的には何も違うところはきっとないであろう。

(4)で、何故スティーブンスが非常に非論理的な感情に襲われるかということになると、それはきっと、彼の言う「聡明な忠誠心」とは、二日目の午後に思い起こしていた、アメリカのルイス氏の言うことの受け売りを気付かないうちにしていたからではないか、と私は考える。気付かないうちに、どこかでスティーブンスの心の中には、主人の在り方に対して納得できない点があったのである。

3.結論

 引用3でほのめかしたように、ダーリントン卿が、国際外交に素人である、理解できないことに手を出す紳士であるとすれば、理解できないことには不干渉を貫くスティーブンスはプロであるはずである。そのあり方は引用1、2で述べたとおりである。付け加えるならば、カーディナル氏の姿勢もプロではない。ダーリントン卿とカーディナル氏、対してスティーブンスのそれぞれの行く先を見れば、確かに一線が引いてあるように思われる。ダーリントン卿とカーディナル氏は命を落とし、スティーブンスは変わらず生き残っている。処世術としては、自分の理解できないことに手を出すべきではないという点は確かなのだろう[ 映画『日の名残り』の特典メニューより

私より一世代前の日本は全体主義に近かった。だから私の世代の日本人や同世代のドイツ人は自分が少し前に生まれたらどうしたかと考えることがある。勇気を持ってしっかりと全体を見据え、あの時代の勢いに流されずにいたのだろうか。…私はこう考えた。当時の人々の政治思想や道徳観念は執事だった。品格や名誉、任務の達成感を重んじていただけで、それがどう利用されるか知らなかったんだ。

 無論、この小説を読んで「世界の大問題」に対して”strong opinion”(力強い意見)を持つことが大事であると考えることが大切であることはよく伝わってくるが、私には、小説内でのルイス氏の意見、すなわち理解できないことに手を出し、騙されたり利用されたり、それ以上に事態を悪化させ物事を悪い方向へと進めるアマチュアは必要ない、という意見の方が正しい、あるいはこの小説の主題となっているのはその言葉ではないか、(映画は確かに社会問題の啓発につながっている向きはあるだろうが)、と思い、レポートの題には「プロとアマチュア」という言葉を付け加えた。

 この小説では、スティーブンスの、いわば罪のようなものを、彼の内面描写を通じて浮かび上がらせるような仕組みになっているかもしれないが、それは社会の歯車として生きる、すべての働く人が共通して持っている罪だからである。社会に生きる人(私もその中の一人として入っていくことになる)は、所属する集団の論理から離れて行動することは、基本的に認められない。それほど、自分の意志で動くことというのは難しいことだ。だから、多くの人にスティーブンスを断罪することはできないし、それは人間の普遍性を否定するという意味で間違っている。しかし、イシグロは私たちにこの小説を通じて、「それでも」、というエールを送っている。イシグロはダイレクトにではないが、人生の悲哀を描きながらも、人の在り方に対して一石を投じている、というのは確かだ。

]。

 しかし、当のスティーブンスが本当に幸せであるかと言われれば、それは疑問を覚えざるを得ない。彼は生きていくために、父の最期に立ち会うこともできず、ミス・ケントンとの心の交流も絶つことになった。少なくともプロとして生きることが、当時は成功への過程だった。しかし、内面的に豊かな生き方であったとは言えないのが事実である。その結果として、彼は今回述べたように、複雑な心境で人生を振り返えざるを得なくなっている。

 世界の価値観が変わりゆく、人生のピークを過ぎた後に、彼は贋作扱いされる。大きな情勢の変化としては、イギリスが沈みゆく夕日に喩えられ、アメリカの世紀と呼ばれるような、世界の中心にアメリカがやってくるような状況だ[ この小説において、ナチス・ドイツとイギリス、そしてアメリカが比較されているが、社会主義、共産主義国家のソ連の存在感は濃いわけではない。それは地理的にソ連とイギリスの距離が離れていることと無関係ではないと考える。]。国柄として、一般的に言われるようにイギリスが紳士の国であれば、アメリカは実業家の国であり、その体勢の変化の中スティーブンスも揺れている。そのような中で、彼は人生を顧みて、涙が出るほどの後悔や悲しみを背負わなければならない。どのような生き方をするかはその人次第だが、世界の大問題に対して、私たちは理解も手出しもできずに、生きるしかない[

恐らく、時代の情勢が変わってきた、というのはあるかもしれない。21世紀に入って、世界各国でデモが起きるようになった。民主主義を第一に、といった掛け声を基に、既存の社会運動と異なる動きが現れるようになった。しかし、その結果として生まれたのはいったい何であったか。正の面だけでは決してないはずだ。負の側面として、記憶に新しいのは、トランプ大統領の当選、EU離脱、テロリズム、ヘイト・スピーチ、また過去に遡って考えれば、日本における学生運動などもそれに当るかもしれない。反知性主義と言われるような危険なものである。イシグロの主張はもっともだが、判断を誤る危険性はどこまで行っても付きまとう。その際にプロとしてアドバイスができる環境がある、というのは本当に大切なことだと私は考える。もちろんその仕組みの上でアマチュアが考えることはとても大切なことだ。

5.参考書目

第一次資料

Kazuo, Ishiguro. The Remains of the Day, Faber Library Edition, 1999

第二次資料

カズオ・イシグロ著『日の名残り』土屋政雄訳、早川書房、2012年

村上春樹『ノルウェイの森(上)』講談社、1987年

『日の名残り』 監督:ジェイムズ・アイヴォリー, 脚本:ルース・プラワー・ジャブバーラ, ハロルド・ピンター, 出演者:アンソニー・ホプキンス, エマ・トンプソン, 音楽:リチャード・ロビンス, DVD, コロンビア映画, 1993年

帝国書院編集部編『最新世界史図説タペストリー 十一改訂版』帝国書院、2013年

参考URL:<https://www.gov.uk/government/history/past-prime-ministers/neville-chamberlain> History of Neville Chamberlain - GOV.UK最新更新日:2017年2月2日

<http://blogs.yahoo.co.jp/honestly_sincerely/44065394.html> 書評54:カズオ・イシグロ『日の名残り』(読書)-読書のあしあと-Yahoo!ブログ、最新更新日:2017年2月2日

<https://kotobank.jp/word/%E5%8B%A2%E5%8A%9B%E5%9D%87%E8%A1%A1-546684> コトバンク「バランス・オブ・パワー」、最新更新日:2017年2月2日

<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%B3>「ネヴィル・チェンバレン wikipedia」、最新更新日:2017年2月2日

](この小説の解釈とは別として、手を出す生き方を否定はしない)。

 しかし、それを前向きにとらえてやっていくことが、人として生きるということである(土屋350-352)。人の心の動きを取り上げたのが、この小説である。どのように過去のとらえ方が変容していくかを味わうかが、この小説の醍醐味である。先に述べた、生きていくために支払わなければならない代償のような、後悔や悲しみと向き合うスティーブンスを想像する中で、私たちは心から共感し、涙が出るほどの感動があふれるのである。二三歳で私はこの小説を読んだわけだが、きっとこの小説は年を重ねるごとに、深みを増して私の心に食い込んでくるだろう。もちろん、この小説に対する私の考え方も変わっていくだろう。

4.注

全て日本語訳は筆者によるものである。

()で頁数が表示されているのが第一次資料である。