『日の名残り』論(イギリス文学ですが)
学期末レポート
The Remains of the Day論
――プロとアマチュア
1.序論
はじめに
おそらくこれが、私が学生で書く最後のレポートである。
あらすじではないけれど、この作品をどのように読んだか、という私の読み方を紹介する。そして本論に入り、原文[主に三つ]を引用しながら、私がこの小説を読んで感動したことを、出来る限り論理的に伝えたい。
歴史的コンテクスト
この小説を読むに当たって、また授業で提示された、歴史との関わりというコンテクストは、何も述べずに終えてしまえば、私が授業を受けたという証明にならないと考える。そこで以下、ナチズムと関わるドイツ史について、またダーリントン卿のモデルとされる[ 「書評54:カズオ・イシグロ『日の名残り』(読書)-読書のあしあと-Yahoo!ブログ」より
…イギリス外交史の細谷雄一は、このダーリントン卿のモデルはチェンバレン兄弟だろうと予想しているが(…)。
このような記述があったが、URLは古く、資料がなかったため、信頼できると思われるwebページから情報を集めた。
]チェンバレン兄弟を中心にイギリス史を簡単ではあるが述べることで、私のレポートの中心ではないのだが、授業で提示されたことの答えということにしたい[ 私は2016年前学期に、愛媛大学吉田正広先生の第一次世界大戦前後、1930年代に入る前までのヨーロッパの歴史についての授業を受けていた。しかし使用したテクストを誤って処理してしまったため、また私がこのレポート提出日に帰省しなければいけないということで、原典を示すということができない。大変恐縮だが、ご理解いただきたい。
]。
第一次世界大戦が終わったのは1918年11月である敗戦国であり、戦争の発端となったドイツは、ハプスブルク朝オーストリアと完全に切り離される。そして待っていたのは多額の賠償金であり、激しいインフレが起こった。1924年、すなわち小説内でルイス議員が登場する一年後に、ドーズ案が可決され、ドイルの賠償金支払いが一時ストップする。そしてアメリカがドイツに貸付け、ドイツがフランス、イギリスに賠償金を払い、フランスはイギリスに返済し、イギリスはアメリカに返済するという流れになった。作品のルイス議員の発言、そしてダーリントン卿のドイツへの憐れみということから考えてみると、二日目朝の描写というのはこのプロであるアメリカがヨーロッパのテコ入れをするというドーズ案を思わせる。
ドイツ国民は戦時中、兵隊が「かぶらの冬」と呼ばれるような経験もし、愛国的労働奉仕法という、17歳から60歳まで全男性に労働を命ずるという、無茶な法律を課されるほどで、国民は疲弊しきっており、その中でヒトラーが支持されるようになったのは不思議ではない。
一方ドイツの対照として挙げられるイギリスは、戦争中もビジネス・アズ・ユージャルを貫いた。また戦後は、伝統的な島国であることから生まれるバランス・オブ・パワー(勢力均衡)という思想で、一国に力が集中するのを避け、また一国が瀕する状況を嫌ってきた。その思想がおそらくダーリントン卿に受け継がれていると言えるかもしれない。
イギリスでは1916年にロイド=ジョージ挙国一致内閣が生まれる。21年にしかし24年には第一次マクドナルド内閣が発足し、自由党は弱っていき、保守党と労働党政権が続くことになる。26年にイギリス連邦(本国と自治領の平等)構想を目指してイギリス帝国会議が行われ、最終的に31年にウエストミンスター憲章が出される。端的にはイギリス帝国の解体、さらにはイギリスの植民地の放棄を示すものであり、民族自決の法則に基づいたものだ。現代から見るとある意味でアマチュアな動きと言えるかもしれない。
ラインラントにドイツが進出したのは36年のことである。戦後のヨーロッパ大陸の行く先を示した1919年6月のヴェルサイユ条約を、これは完全に破ったことになる。しかしその前年、イギリスには英独海軍協定が結ばれている。イギリスも労働党が進出し、より親密な関係を、という流れはあったのである。
ヒトラーは19年にドイツ労働者党を結成する。20年にはNSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党、ナチ党)と改称する。32年に第一党となる。ナチ党が掲げたスローガンとしては、ヴェルサイユ体制の打破、反共産主義、ドイツ民族の優位性とユダヤ民族の排斥、公共事業と軍需産業による失業者の救済、領土の拡大であった。日常生活にナチズムは入り込んでいく。1936年にはベルリンオリンピックが開催され、ドイツ民族はそうしたことから自信を取り戻していくのだった。極めつけはアウシュビッツ刑務所である。毒ガスで収容したユダヤ人を殺していった。
歴史的なこうしたナチズムと呼ばれる思潮は、「全体主義」として現代知識人は警戒している。カリスマのある人物の過激な政策によって、何かが悪に喩えられ、ナショナリズム(国家主義)という、自分のアイデンティティを強い自分の国に求めさせるというものである。日本の場合でも全体主義の思潮があったとされ、『はだしのゲン』にあるような状況であった。
ダーリントン卿のモデルとされる、チェンバレン兄弟について。兄のオースティン=チェンバレンは1863年、末っ子のネヴィルの6年前に生まれた。オースティンは25年のロカルノ条約でドイツを国際連盟に加盟させ、独仏の関係の緩和に起因した人物として知られる。そのことで彼はノーベル平和賞を受賞している。ダーリントン卿の名誉はここからきていると言っていい。
ネヴィルはしかしながら、この小説の後期、30年代、1938年のミュンヘン条約で独伊の融和政策を取ったことで歴史的に批判される人物である。Wikipediaには次のように書かれている。ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与え、ヒトラーに対し、イギリスから近隣諸国への侵攻を容認されたと勘違いさせた」として非難されている。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、第二次世界大戦を経た現在では、専門家並びに一般は強く批判されることが多い。
エドワード8世は離婚歴のあるアメリカのウォリス・シンプソンと結婚し、ウインザー侯爵としてわずか一年足らずで退位した。ナチスの熱狂者であった、と作中で描かれており、授業ではその関りで退位したという話も出た。
エドワード8世の人生と、スティーブンスとミス・ケントンの関係が、この小説では臭わせるものがある。スティーブンスはミス・ケントンを引き留め、自分の職務を全うせずに、歴史的に侯爵として称えられるエドワード8世のような道もあったのである。しかし、彼はその道を選ぶことを当時は考えもしなかった。つまり分岐点はあったのだ、一本道ではなかったのだ、ということを示している。
この作品をどのように読んだか
Remains of the Dayの土屋訳には解説がついていて、旧仮名遣いを用いて丸山氏が提示した読み方がある[ 訳本の解説者の丸山才一は次のように述べている。
イシグロの方法はさう[英雄を従僕の眼で見る、あるいは英雄崇拝的な方法]ではない。彼のスティーブンスはダーリントン卿に心服してゐた。尊敬すべき大物だと信じ切ってゐた。つまりダーリントン卿は従僕にすら軽蔑されない偉大な存在だった。さういふ、敬愛といふよりはむしろ畏怖の対象である貴族への評価が次第に崩れてゆく、そのいはば公的な悲劇となひまぜにして、この従僕はまた私的な悲劇を持つ。女との関係を回顧して、自分が勿体ぶつてばかりゐて人間らしく生きることを知らない詰まらぬ男だつたといふ自己省察に到達するのだ。この公私両方の認識の深まり方に付き合ふのが『日の名残り』を読むといふことなのである。(土屋 363-364, 傍点引用者)
ここで言っているのは恐らく、大野先生が指摘された、父の死とケントンの別れという、二つのこの小説の核となるスティーブンスの、自分に対してついた嘘についてである。同じクラスを受講している角田さんとは、スティーブンスが六日目にケントンと会うときには、それまでの自分と異なり、自分の思ったことを素直に言えている、正直になれていますよね、という話題になった。村上春樹の『ノルウェイの森』の引用を出して説明したい。
もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみ言うと思ったことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。[中略]結局のところ――と僕は思う――文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより彼女を理解するようになったと思う。(村上22)
この小説は五日目に起こったことを六日目に書き綴っているという形式になっている。おそらく五日目に思い浮かべたことをそのまま表すとしたら、それはあまりに複雑な思いにとらわれたスティーブンスの姿があったことだろう。浮かんできたのはきっと、ダーリントン卿の終焉であり、主人のみっともない姿を描写することになるので、その日には忠実なスティーブンスには書けなかったのではないか。一日空けることによって自己認識が深まり、認識が新たになった。その認識が本物かどうかは別として。そして最終的に前向きになろうと思えて、旅は終わりを迎えるのである。スティーブンスはもう年であり、長くない人生であるが、それでも前向きになって戻ることができたのなら、悪くない人生ではなかろうか。少なくとも悪い年の取り方ではないと考える。
]。けれどもこれよりもっと具体的に作品の「流れ」を掴まなければ、この作品を読んだことにはならない。少なくともスティーブンスの気持ちをわかったことにはならない。字数に関してはオーバーしてしまうが、その点はご了承いただければと思う。
なお、私はできるだけあえてミス・ケントンとの関連ではなく、あえてプロ(専門家)とアマチュア(素人)という対比でこの作品を捉えようと思う。
***
彼、スティーブンスが旅に出るのは、ダーリントン・ホールの人員不足解消のためにミス・ケントン(ミセス・ベン)を訪ねることにあった。言い出すまでの件はずいぶんと長いが、ファラディ氏にからかわれて以降の彼は、特に語らない。旅立つ際にすっきりして旅に出ており、また景色を十分に楽しんでいる。
景色を楽しんでいるのは、そのように指示されていたから、と言ってしまえばそれまでだが、外の景色に触れることで、彼がダーリントン・ホール内では考えなかった様々なことが、頭に浮かぶようになる。ダーリントン・ホールという、時間の流れが止まっているかのようなところから出された彼は、現実の空気の流れる外の景色を受けて、実際リフレッシュされている。
そこで彼の頭に浮かんだのは、「偉大さ」(greatness)であり、「品格」(dignity)であり、それを象徴する彼の父と、その父を超える際の自分である[ 106より試訳
「[中略]さて、私たちは全く率直になっているので、私の率直になろう。あなた方ここにいる紳士よ、失礼だが、あなた方は、神経質な夢想家の一団だ。そしてあなた方が世界に影響を与える大きな情勢に干渉することを主張するなら、あなた方は実際ご挨拶ですよ。こちらの優れたわれらが主人を例にとりましょう。彼はいかがなものか?彼は紳士だ。ここにいる誰も、私は信じているが、賛成しないということはないだろう。伝統的な英国紳士だ。上品で、正直で、善意の方だ。しかし閣下は素人だ」。彼は言葉を切ってテーブルを見渡しました。「彼は素人で、今日の国際情勢はもはや紳士のものではない。ヨーロッパのあなた方はすぐに確信することでしょう。あなた方上品で、善意の紳士は、一つお尋ねするのだが、あなたの周りのあらゆる物事が世界の土地の種がどのようになってきているかいかにお考えか。あなた方の高貴な本能が働く範囲は超えてしまっている。しかし当然、あなた方はここにいあるヨーロッパの方々はまだ知らない。我らの良き主人のような紳士は自分たちの理解できない物事について干渉することがいまだに自分の仕事だと思っている。たくさんのたわごとがこの二日間飛び交った。善意の、神経質のたわごとだ。ヨーロッパのここにいるあなた方は、ご自分の情勢を経営する専門性を必要としている。乾杯、紳士たち。乾杯させてください。専門家に」。[中略]
あなたがアマチュアリズムと説明するものは、私たちのほとんどがいまだに「名誉」と呼ぶものだと私は考えます」]。そこに至るまで、ずっと彼はとうとうと職業意識(professionalism)を浮かべている。そこで転機となるのが、ダーリントン・ホールに観光に来た夫人に、ダーリントン・ホール自体がまがい物扱いされ、自分自身も本当の執事ではなかったとされた思い出が浮かんだことである。
その次の日から彼の頭に浮かんだことは、自己の正当化である。間違っているのは自分ではなく、周りの人々である、というものであり、これが「信頼できない語り手[
これはウェイン・ブース(Wayne C. Booth, 1920-)によって一九六一年に『フィクションの修辞学』によって提唱された小説の手法である。これは後にフランス現代思想の構造主義と結びつき、ナラトロジーと言われる語りの手法への発展していくことになる。デイヴィッド・ロッジは次のように述べている。
「信頼できない語り手」とはつねに、自らが語るストーリーの一部をなす登場人物である。信頼できない「全知の」語り手というのは、ほとんど論理的矛盾であり、きわめて特殊な実験的テクストにおいてしか存在しえない。一方、「全知」ではない、登場人物でもある語り手にしても、まったく一パーセントも信用できないということはありえない。もしその人物の言うことが全部明らかに嘘だとすれば、それは、我々がとっくに知っていること――すなわち、小説とは虚構の産物であること――を再確認させるに過ぎない。物語が我々の関心をそそるためには、現実の世界と同様、小説世界内部での真実と虚偽を見分ける道が与えられていなくてはならない。
信用できない語り手を用いる意義もまさに、見かけと現実のずれを興味深い形で明らかにできるという点にある。人間がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを、そのような語り手は実は実演してみせるのだ。そうした欲求には、必ずしも本人の自覚や悪意が伴っている必要はない。(ロッジ211)
wikipediaの情報であるので参考に過ぎないが、この小説ではスティーブンスは記憶が曖昧な語り手、と紹介されている。しかし、自分の主義から明らかに隠している情報や、自分の気付いていない自分自身の思いなどがあるので、単に記憶が曖昧なために信頼できないという評価を与えるのはズレていると私は考える。
]」と言われる文学の技巧である。まず否定するのが、世間のリッベントロップ氏とダーリントン卿の扱い方である。とりわけダーリントン卿は、ナチス・ドイツの手先ではなかったと強く主張する。そうして夜を迎えても彼は自己正当化の回想を続けるが、次第にミス・ケントンとの思い出もそこには含まれるようになる。決定的だったのは彼が読んでいる小説の内容について迫られ、プライバシーを侵害されたことである。この時彼は、長々と自分が正真正銘、職業意識からその読書をしていたと語り続けるのである。
その日の最後に、彼はスミス氏から政治的主張を受ける。反論を迫られるが、彼は何も言わない。それを機に再びダーリントンホールでレナード卿に同じように食って掛かられたことを思い出す。一日の終わりに彼は、自分の考える意味で偉大」な「品格」のある執事であることが大切だと顧みる。
しかし、それでも正当化できない思いは彼には確かにあったのだろう。四日目を迎え、ミス・ケントンとの再会が近づいてくる。するとここ二十年間消えなかった記憶の断片が、彼女を契機として蘇る。彼女が泣いているのだ。その日は二つの出来事が同時に起こった日だった。ダーリントン卿は利用されているが、執事であるスティーブンスは何もしないのか、とカーディナル氏がやってきて問う。そしてミス・ケントンは知人との結婚の話題を持ち出し、ヒステリックになる。スティーブンスはそれらに対し結果的に平然と、いや冷淡に処理し、最終的に彼は、大勝利感を得て、その時の思い出を締めくくる。
彼は執事であることを理由に、自分を殺している。殺していた感情が、休暇によって解きほぐされ、現在の空気に当たる。自分が信じていたものが過去のものになってしまった、あるいは時代遅れのものになってしまった、もっと言えばまがい物でしかなかったという哀しさを、彼は感じる。四日目の終わりに感じた、感じるべきではない大勝利感に、彼は大きな戸惑いを覚えていることが読み取れる。
タイトルである”Remains of the Day”が表すように、この小説は朝が来て、夕方が来て、夜になる。夜になる、というのはすなわち人生の最期を表す。どんな人でも老いて、輝いているのは一時である。スティーブンスの人生の最高の時期というのは、彼の父のように、もう過ぎ去ってしまった。今の彼の状況はまさに「日の名残り」である。そのことが耐えられないほど哀しい。ミセス・ベンも彼の元に来ることはなかった。しかし彼は、過去ばかり振り返っていても仕方ない、と考え帰路へ向かうのである。
2.本論
「この作品についての読み方」が長くなってしまったが、本論へと移り私の主張したいことを具体的な分析を基に述べたい。それは、スティーブンスの過去の出来事、物事についての自己正当化に関してである。
その中で、よく指摘される「信頼できない語り手」という手法についてみていくことにもなるだろう。
引用1
これはダーリントン・ホールにいた時、何故はっきりと物事を言わないのかファラディ氏に尋ねられて、スティーブンスが答え、そして回想にふける様子を描いた描写である。今となってみれば、再考の余地があるとスティーブンスは考え、二日目の午後に感じたことを思い浮かべるのである。
(1) ‘It does seem a little extreme when you put it that way, sir. But it has often been considered desirable for employees to give such an impression. If I may put it this way, sir, it is a little akin to the custom as regards marriages. If a divorced lady were present in the company of her second husband, it is often thought desirable not to allude to the original marriage at all. There is a similar custom as regards our profession, sir.’
. . . (2) I believe I realized even at the time that my explanation to Mr Farraday -- though, of course, not entirely devoid of truth -- was woefully inadequate. But when one has so much else to think about, it is easy not to give such matters a great deal of attention, and so I did, indeed, put the whole episode out of my mind for some time. (3) But now, recalling it here in the calm that surrounds this pond, there seems little doubt that my conduct towards Mr Wakefield that day has an obvious relation to what has just taken place this afternoon.(131-132 italics mine)
(1)「あなたがそのようにおっしゃるなら、それはいささか極端に思われます。しかしそれは、召使たちにとって望ましいとしばしば考えられることです、そのような感銘を与えるということに際して。もし私がこの流儀を申し上げようとしましたら、閣下、それは結婚に関しての習慣と類似しています。もし離婚された再婚した連れとご婦人がいらしたら、元々の結婚のことがほのめかされるのは、全く望ましくないことでしょう。職務についても、同様の習慣があるのです」
…(2)私はそのとき、ファラディ様に説明したその時でさえ、――もちろん真実を全く欠いているというわけではありませんが――悲惨なくらい不十分でした。しかし、私には考えるべきことがあり、容易にそうした事情を非常に大変な注意を払うことはありませんでした。そして、そういうわけで、しばらく私は実に出来事すべてを忘れていました。(3)しかし今、ここの池を囲っている静けさでそれを思い出していると、私のあの日のウェイクフィールド夫人への振る舞いが今の後ちょうど起こったこととの明白な結びつきがあるというかすかな疑いがあるように思われます。
(1)ここでスティーブンスが出している喩えに関して、私はこの小説の一番のおかしさは、この「結婚」と「離婚した女性」に対しての扱いについての例の出し方だと考えているのだが、いかがだろうか。そもそも結婚していないスティーブンスが結婚を例に出すのもなんだかおかしい。そしてこの結婚の例は、ミス・ケントンへの慕情と合わせて考えると、明らかにスティーブンスの未練を感じさせる。だからこそスティーブンスは、「悲惨なほど不適切」だった、と思わずにはいられなかったのである。
(2)加えて、彼には考えることがあったため、そのことを思い出さなった、という言い訳を話している。注意を払わなかったのは容易なことで、すっかり忘れていた、と断言している。彼が注意を払っていたのは、ウェイクフィールド夫人に対してどう考えればいいのかわからないまま、贋作扱いされた事への怒りが先に来ていたのではないかと私は考える。
(3)表現の注目として、「明白な」と「かすかな疑い」という言葉は矛盾しているように受け取れる。池を見ていると、水に映った自分の姿が見える。反射されて見えるのは、もちろん虚像であるから、偽物の自分なのである。それを見ていると、そのような思い出がよみがえる、ということであろう。
ここからは、結婚と結びついたミス・ケントンへの思いと、自分が贋作扱いされることへの無自覚な怒り、次第に見えてくる自己正当化の思いといったものが読み取れる。
引用2
これは三日目晩の描写である。ミス・ケントンがスティーブンスの部屋に入ってきて、読書中のスティーブンスに迫るが、彼はケントンを追い払う。その後、スティーブンスは自分が「おセンチ」な恋愛小説を読む理由についてくどくどと自己正当化する説明の後半部分の回想である。
(1) But when I say this, I do not mean to imply the stance I took over the matter of the book that evening was somehow unwarranted. For you must understand, there was an important principle at issue. The fact was, I had been ‘off duty’ at that moment Miss Kenton had come marching into my pantry. (2) And of course, any butler who regards his vocation with pride, any butler who aspires at all to a ‘dignity in keeping with his position’, as the Hayes Society once put it, should never allow himself to be ’off duty’ in the presence of others. It really was immaterial whether it was Miss Kenton or a complete stranger who had walked in that moment. (3) A butler of any quality must be seen to inhabit his role, utterly and fully: he cannot be seen casting it aside one moment than a pantomime costume. There is one situation and one situation only in which a butler who cares about his dignity may feel free to unburden himself of his role; that is to say, when he is entirely alone. (4) You will appreciate then that in the event of Miss Kenton bursting in at the time when I had presumed, not unreasonably, that I was to be alone, it came to be a crucial matter of principle, matter indeed of dignity, that I did not appear in anything less than my full and proper role. However, it had not been my intention to analyse here the various facets of small episode from years ago. The main point about it was that alerted me to the fact that things between . . . (5) But as to just how much that incident contributed to the large changes our relationship subsequently underwent, it is very difficult now to say. There may well have been other more fundamental developments to account for what took place.(177-178 italics mine)
(1)しかしこのことを申し上げるに当たり、私は次のことをほのめかすつもりはありません。あの晩の、その本に関する件を引き継いだ立場が、いくらか正しいと認められないということです。というのもきっとわかってくださるに違いありませんが、問題になっている重要な主義・原理があります。実をいえば、私は「休憩中」で、ミス・ケントンは食料品置き場へ堂々と歩いていきました。(2)そして当然、自分の天職に誇りを認めるどんな執事も、「自分の立場をわきまえる品位」を熱望するどんな執事も、ヘイズ協会がかつて言ったように、決して他者を前にして「休憩中」になるのは許されるべきではありません。あの時歩いてきたのがミス・ケントンであろうと赤の他人であろうと、それは全く問題ではありません。(3)執事のどんな資質もその役割に宿るに違いありません。全く十分に、執事はそれが[執事の資質]たとえ、茶番劇の衣装でしかなかったとしても、それ[執事の資質]を脇に見捨てているとみられても、ある瞬間とある時単純にそれを再び身に着けている、と見られなければなりません。考える執事は自分自身の役割を自由に捨てることができるという状況はたった一つです。(4)それではお判りだと思いますが、理由もなく自分が完全に一人でいると推定されるとき、ミスケントンが急に現れた場合、私が完全にして適切な役割に他ならないのは、原理的な決定的な物事、即ち実に品位という物事であるように思われます。しかし私が、数年前の些細なエピソードをここで分析しているわけではありません。[注略]
(5)自分自身の思いつくことをまとめ上げ整理するという機会があった後、より適切な基礎に当たる我々の職業的結びつきを再編成しようと決心したのを思い出しました。しかしその出来事がどれだけ私たちの大きな関係が続いて耐えるということに起因するかについて、それは今申し上げるのは難しいです。何が起こるのかの説明のより基本的な発展があってもいいでしょうに。
(1)あくまでも自分は、「休憩中」であり、それを邪魔したケントンが悪い、ということを一貫してスティーブンスは主張する。しかしその休憩というのは、職業上の休憩である。プロとしての休憩である。ケントンとのおしゃべりや交流は、職業上のものであり、決してプライベートなものにはなり得ない、ということをスティーブンスは言っている。ここにはイギリス伝統の個人主義が読み取れる。
(2)”butler”という語が何度も使われることで、執事とは何たるものか、ということを必死にスティーブンスは主張しようとしている。彼が説くのは、プロとしての執事の在り方である。ミス・ケントンに対して素直に何の本を読んでいるか伝えずに、仏頂面を続けるのは当然のことである、と彼は言うのである。このような姿勢の人間が、結婚できるとは到底思えないのだが。
(3)”pantomime”というのは、なかなか面白い語である。もちろん一義的には、表面では何かの真似をしているけれども、よく見ればそれは、フリにしか過ぎない。素振りであることがすぐにわかってしまう。その点で茶番劇なのである。また、パントマイムとは、相手と自分との間に見えない壁を作る行為である。これより以前の描写にも、パントマイムという語を用いて執事が何たるかについて述べているが、プライベートとパブリックを、アマチュアとプロとを比較するうえで重要な表現であるということが分かる。なお、この表現はウィリアム・シェイクスピアの『マクベス』を参考にしていると考えられる。役割という語が何度も使われているが、役割を果たすのが執事の仕事だと言って憚らないのが、スティーブンスである。それはあくまでも身に着けるもの、独りである時にだけ脱ぎ捨てられるものだというのである。
(4)スティーブンスはおおよそ五頁に渡って本についての釈明、言い訳を続けていながら、それは大したこと出来事ではないのだ、と述べている。ミス・ケントンに対しての怒りとは、決して彼が述べているような、職業上の理由から、だけではないだろう。性的なものに対してのプライベートな部分を覗かれることに対しての恥ずかしい部分、それこそが彼の我慢ならなかった点であろう。
(5)馬鹿丁寧な表現をしながらも、スティーブンスはミス・ケントンに対して、あるいは無自覚なのかもしれないが、確実に思いを寄せている(少なくとも映画ではそう解釈されている)、あるいは思うところがあることが読み取れる。「職業的結びつき」でしかないと言いながらも、それはきっと職業を超えたものであると読み取ることは容易だろう。
ここからは執事という職業に対する誇りと、それを理由にして、自分の”off duty”について言い訳するスティーブンスの考えが読み取れる。自分のプライべートに干渉されたことに対しての怒りの裏にある、ミス・ケントンへの何とも言えない思い、すなわち彼女とはパブリックに、公式に付き合っているに過ぎない、という強がりが見えてくる。
引用3
これは三日目の晩の描写である。現実世界でミスター・スミスが強く自己主張をする。そこから思い出して、ダーリントン・ホール内で世界情勢について、からかって尋ねられたことを思い出す。ここでスティーブンスが主張しているのは執事としての自分の立場の問題である。それはまさに、難しい立ち位置(”tricky position”, 231)であり、言い訳を続けている。
(1)Please do not misunderstand me here; I don’t refer to the mindless sort of ‘loyalty’ that mediocre employers bemoan the lack of when they find themselves unable to retain the services of high-calibre professionals. Indeed, I would be among the last to advocate bestowing one’s loyalty carelessly on any lady or any lady or gentleman who happens to employ one for a time. (2) However, if a butler is to be of any worth to anything or anybody in life, there must surely come a time when he ceases his searching: a time when he must say to himself: ’This employer embodies all that I find noble and admirable. I will hereafter devote myself to serving him.’ (3) This is loyalty intelligently bestowed. What is there ‘undignified’ in this? One is simply accepting an inescapable truth: that the likes of you and I will never be in a position to comprehend the affairs of today’s world, and our best course will always wise and honourable, and to devote our energies to the task of servicing him to the best of our ability. . . . (4) Throughout the years I served him, it was he and he alone who weighed up evidence and judged it best to proceed in the way he did, while I simply confined myself, quite properly, to affairs within my own professional realm. And as far as I am concerned, I carried out my duties to the best my abilities, indeed to a standard which many may consider ‘first rate’. It is hardly my fault if his lordship’s life and work have turned out today to look, at best, a sad waste - and it is quite illogical that I should feel any regret or shame on my own account.(210-211 italics mine)
(1)ここで私を誤解しないでいただきたい。愚かな種の忠誠心について話す気はありません。二流の雇用主は気付いてみると、専門家の器量のサービスを失わないでいるようにできないでいます。実際、私は偶然その人を一時的に雇うことになった紳士淑女、主人の忠誠心を盲目的に授けることなど全くしそうにないです。(2)しかしながら、もし執事が人生において何かの価値、何らかのもの、何らかの人間であるなら、確かに、彼が自分の人生において自分の主人を探すのをやめたとき、彼が自分自身に言い聞かせねばならないときが訪れるに違いありません。「この私が見出すすべてをご主人様は高貴さ、憧れなどを体現している。私は今後彼の奉仕に自分自身を捧げよう」。(3)これは捧げるべき聡明な忠誠心です。この中にはどんな「不体裁なもの」があるのでしょう。それは、誰も今日の世界の偉大な情勢を理解する地位にはいないということ、ただ逃れようもない真実を受け入れています。そして私たちの最良の選択は、いつもご主人様に信頼を置くべきです。私たちが聡明で名誉ある、と判断し、私たちの能力のベストを彼への奉仕という仕事への力を奉仕するご主人様に。[中略]
(4)私がご主人様に仕えた数年間に渡って、彼がなされるがままに証拠に重きを置き、それを判断して前へ進みました。しかし私は自分自身、専門家としての領域の問題を、非常に適切に限定しました。そして私が関わる限りでは、私は自己の能力の限りで、自らの義務を実行しました。実に多くの人が「一流」と考える基準へと。閣下の人生と業績が今日では、せいぜい悲しい廃棄物のようになってしまったというのは私の過失ではありません。そして私がどんな後悔も辱めも私の説明に関して感じるべきでないのは、非常に筋の通らないことです。
(1)二流の雇用主と一流の雇用主の違いについて述べた後、あくまで執事とは専門家であるべきであり、専門家であることは当たり前であると述べている。しかし二流の雇用主に対しても、専門家として節度あるサービスを提供すべきであり、そのサービスをどう受け取るかは雇用主次第だと、彼は言っている。
「二流の雇用主」ということで、彼はダーリントン卿が一流であることを改めて考えなおしているのだ。そしてスティーブンスには、今日において自分が時勢遅れの人間になってしまった、という意識が強くあるのである。そうしたことを主張する最後の一人になってしまったことを嘆いている。
(2)先のパラグラフに引き続いて、ダーリントン卿の素晴らしさをスティーブンスは述べている。執事をやっていて、何かやりがいがあるとしたら、それはこの主人に仕えていてよかったと思うとき以外にない、というのである。ここからは、どこかかつてのダーリントン卿ほどに心服することのできないファラディ氏への思いが感じられる。ここでは執事であることに負い目を感じていると読み取ることもあるいは可能かもしれない。
(3)先に述べた「愚かな種の忠誠心」と、ここで述べている「聡明な忠誠心」は異なる、とスティーブンスは言っている。どんなものかというと、今日の世界の偉大な情勢を理解する地位にはいないという自覚を持ち、ご主人様にすべてを捧げるだけである、という忠誠心である。それ以上の感情は必要ない、というのである。
ここには、どこかキリスト教的な、神への崇拝のようなものが感じられる。信じる者は救われる、という理論である。不要な感情に身を任せることができれば、心の中は平穏でいることができ、やるべきことに集中することで物事は上手くいくというものである。
(4)数パラグラフ空いて、この結びにつながる。ここでスティーブンスは、自分の中の微妙な心持について述べている。自分ではダーリントン卿を慕う気持ちがあり、後悔も辱めも自分は受けるべきであるのに、素直にそれでいいんだ、と思えない。それも廃棄物であるかのようにスティーブンスは言っている。
それは、自分がやってきたできる限りのことなので、それに関して全く自分に落ち度がない、ということである。「一流」だったのだから。そしてやっていたのは限られた専門領域のことなので、関係がないのだ、という。この姿勢を見ていて思い起こされるのは、ナチス・ドイツののアイヒマン[ 小説と映画の比較として、スティーブンスの乗る車の違いが挙げられる。小説は米国のフォードであり、映画は独国のダイムラーである。
映画ではダイムラーはお前によく似合う、とまで言われている。これはおそらく、アイヒマンとスティーブンスを類比させるという狙いがあると思われる。小説の場合はアメリカに覇権が移り、仕える対象がアメリカの主人に代わってしまったということの象徴としての役割をフォードは果たすように思われる。ちなみにフォードは、一九二〇年代に大きな売り上げを記録した、大衆的な自動車である。このことからも、伝統的な屋敷に仕えていたスティーブンスの高貴さが損なわれてしまっている様子を感じ取ることができる。
また映画では、小説の描写で記憶の中で想像したに過ぎないことをはっきりカメラが示してしまう傾向がある(例:スティーブンス・シニアの転倒、ケントンのお相手とのロマンス等)。人間ドラマというよりもむしろ、ラベルに貼られているように、ラブロマンスという向きが強い。演じているアンソニ―・ホプキンス氏の振る舞いにも、全く執事という専門家としての絶対的意志というものだけではなく、振る舞いからはかすかに、けれども確かにミス・ケントンへの慕情が伝わってくるようになっている。特に私が指摘したいのは、私が第二節で取り上げた”off duty”の際にプライベートを侵害されたときのスティーブンスの様子である。その場面での自己弁護は小説でなければ絶対にできない、深い味のある描写であると私は見ている。どちらかというと小説の方が、読み込んでいく中で浸み出てくる深みはあるという風に私は考えている。
]である。仕事だからいかにうまく仕事をするか、ということだけを考え、残虐な行為を何とも思わなかったアイヒマンと類似する点が見受けられる。ただ役割が違うだけで、本質的には何も違うところはきっとないであろう。
(4)で、何故スティーブンスが非常に非論理的な感情に襲われるかということになると、それはきっと、彼の言う「聡明な忠誠心」とは、二日目の午後に思い起こしていた、アメリカのルイス氏の言うことの受け売りを気付かないうちにしていたからではないか、と私は考える。気付かないうちに、どこかでスティーブンスの心の中には、主人の在り方に対して納得できない点があったのである。
3.結論
引用3でほのめかしたように、ダーリントン卿が、国際外交に素人である、理解できないことに手を出す紳士であるとすれば、理解できないことには不干渉を貫くスティーブンスはプロであるはずである。そのあり方は引用1、2で述べたとおりである。付け加えるならば、カーディナル氏の姿勢もプロではない。ダーリントン卿とカーディナル氏、対してスティーブンスのそれぞれの行く先を見れば、確かに一線が引いてあるように思われる。ダーリントン卿とカーディナル氏は命を落とし、スティーブンスは変わらず生き残っている。処世術としては、自分の理解できないことに手を出すべきではないという点は確かなのだろう[ 映画『日の名残り』の特典メニューより
私より一世代前の日本は全体主義に近かった。だから私の世代の日本人や同世代のドイツ人は自分が少し前に生まれたらどうしたかと考えることがある。勇気を持ってしっかりと全体を見据え、あの時代の勢いに流されずにいたのだろうか。…私はこう考えた。当時の人々の政治思想や道徳観念は執事だった。品格や名誉、任務の達成感を重んじていただけで、それがどう利用されるか知らなかったんだ。
無論、この小説を読んで「世界の大問題」に対して”strong opinion”(力強い意見)を持つことが大事であると考えることが大切であることはよく伝わってくるが、私には、小説内でのルイス氏の意見、すなわち理解できないことに手を出し、騙されたり利用されたり、それ以上に事態を悪化させ物事を悪い方向へと進めるアマチュアは必要ない、という意見の方が正しい、あるいはこの小説の主題となっているのはその言葉ではないか、(映画は確かに社会問題の啓発につながっている向きはあるだろうが)、と思い、レポートの題には「プロとアマチュア」という言葉を付け加えた。
この小説では、スティーブンスの、いわば罪のようなものを、彼の内面描写を通じて浮かび上がらせるような仕組みになっているかもしれないが、それは社会の歯車として生きる、すべての働く人が共通して持っている罪だからである。社会に生きる人(私もその中の一人として入っていくことになる)は、所属する集団の論理から離れて行動することは、基本的に認められない。それほど、自分の意志で動くことというのは難しいことだ。だから、多くの人にスティーブンスを断罪することはできないし、それは人間の普遍性を否定するという意味で間違っている。しかし、イシグロは私たちにこの小説を通じて、「それでも」、というエールを送っている。イシグロはダイレクトにではないが、人生の悲哀を描きながらも、人の在り方に対して一石を投じている、というのは確かだ。
]。
しかし、当のスティーブンスが本当に幸せであるかと言われれば、それは疑問を覚えざるを得ない。彼は生きていくために、父の最期に立ち会うこともできず、ミス・ケントンとの心の交流も絶つことになった。少なくともプロとして生きることが、当時は成功への過程だった。しかし、内面的に豊かな生き方であったとは言えないのが事実である。その結果として、彼は今回述べたように、複雑な心境で人生を振り返えざるを得なくなっている。
世界の価値観が変わりゆく、人生のピークを過ぎた後に、彼は贋作扱いされる。大きな情勢の変化としては、イギリスが沈みゆく夕日に喩えられ、アメリカの世紀と呼ばれるような、世界の中心にアメリカがやってくるような状況だ[ この小説において、ナチス・ドイツとイギリス、そしてアメリカが比較されているが、社会主義、共産主義国家のソ連の存在感は濃いわけではない。それは地理的にソ連とイギリスの距離が離れていることと無関係ではないと考える。]。国柄として、一般的に言われるようにイギリスが紳士の国であれば、アメリカは実業家の国であり、その体勢の変化の中スティーブンスも揺れている。そのような中で、彼は人生を顧みて、涙が出るほどの後悔や悲しみを背負わなければならない。どのような生き方をするかはその人次第だが、世界の大問題に対して、私たちは理解も手出しもできずに、生きるしかない[
恐らく、時代の情勢が変わってきた、というのはあるかもしれない。21世紀に入って、世界各国でデモが起きるようになった。民主主義を第一に、といった掛け声を基に、既存の社会運動と異なる動きが現れるようになった。しかし、その結果として生まれたのはいったい何であったか。正の面だけでは決してないはずだ。負の側面として、記憶に新しいのは、トランプ大統領の当選、EU離脱、テロリズム、ヘイト・スピーチ、また過去に遡って考えれば、日本における学生運動などもそれに当るかもしれない。反知性主義と言われるような危険なものである。イシグロの主張はもっともだが、判断を誤る危険性はどこまで行っても付きまとう。その際にプロとしてアドバイスができる環境がある、というのは本当に大切なことだと私は考える。もちろんその仕組みの上でアマチュアが考えることはとても大切なことだ。
5.参考書目
第一次資料
Kazuo, Ishiguro. The Remains of the Day, Faber Library Edition, 1999
第二次資料
カズオ・イシグロ著『日の名残り』土屋政雄訳、早川書房、2012年
村上春樹『ノルウェイの森(上)』講談社、1987年
『日の名残り』 監督:ジェイムズ・アイヴォリー, 脚本:ルース・プラワー・ジャブバーラ, ハロルド・ピンター, 出演者:アンソニー・ホプキンス, エマ・トンプソン, 音楽:リチャード・ロビンス, DVD, コロンビア映画, 1993年
帝国書院編集部編『最新世界史図説タペストリー 十一改訂版』帝国書院、2013年
参考URL:<https://www.gov.uk/government/history/past-prime-ministers/neville-chamberlain> History of Neville Chamberlain - GOV.UK最新更新日:2017年2月2日
<http://blogs.yahoo.co.jp/honestly_sincerely/44065394.html> 書評54:カズオ・イシグロ『日の名残り』(読書)-読書のあしあと-Yahoo!ブログ、最新更新日:2017年2月2日
<https://kotobank.jp/word/%E5%8B%A2%E5%8A%9B%E5%9D%87%E8%A1%A1-546684> コトバンク「バランス・オブ・パワー」、最新更新日:2017年2月2日
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%B3>「ネヴィル・チェンバレン wikipedia」、最新更新日:2017年2月2日
](この小説の解釈とは別として、手を出す生き方を否定はしない)。
しかし、それを前向きにとらえてやっていくことが、人として生きるということである(土屋350-352)。人の心の動きを取り上げたのが、この小説である。どのように過去のとらえ方が変容していくかを味わうかが、この小説の醍醐味である。先に述べた、生きていくために支払わなければならない代償のような、後悔や悲しみと向き合うスティーブンスを想像する中で、私たちは心から共感し、涙が出るほどの感動があふれるのである。二三歳で私はこの小説を読んだわけだが、きっとこの小説は年を重ねるごとに、深みを増して私の心に食い込んでくるだろう。もちろん、この小説に対する私の考え方も変わっていくだろう。
4.注
全て日本語訳は筆者によるものである。
()で頁数が表示されているのが第一次資料である。
0コメント