卒業論文 「The Great Gatsby 論――西部で育まれた人間的烈しさ」注
[1]私はこの人間的烈しさに、三つの意味を込めた。”intense”という単語は、「真剣な」、「感動しやすい」という意味がある。人間的烈しさの中には、一つはギャツビーの烈しい観念、二つ目にニックの感動できる心、三つ目に、人間すべてが持っている深いところにある感情というものが私がずっと伝えたかったことである。
[2] ロッジ 211より引用
「信頼できない語り手」とはつねに、自らが語るストーリーの一部をなす登場人物である。信頼できない「全知の」語り手というのは、ほとんど論理的矛盾であり、きわめて特殊な実験的テクストにおいてしか存在しえない。一方、「全知」ではない、登場人物でもある語り手にしても、まったく一パーセントも信用できないということはありえない。もしその人物の言うことが全部明らかに嘘だとすれば、それは、我々がとっくに知っていること――すなわち、小説とは虚構の産物であること――を再確認させるに過ぎない。物語が我々の関心をそそるためには、現実の世界と同様、小説世界内部での真実と虚偽を見分ける道が与えられていなくてはならない。
信用できない語り手を用いる意義もまさに、見かけと現実のずれを興味深い形で明らかにできるという点にある。人間がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを、そのような語り手は実は実演してみせるのだ。そうした欲求には、必ずしも本人の自覚や悪意が伴っている必要はない。(ロッジ211)
この小説の技法を唱えたのは、アメリカの文芸評論家ウェイン・C・ブース(Wayne C. Booth 1921-)であり、それは『フィクションの修辞学』(The Rhetoric of Fiction 1961)で定義された「信頼できない語り手」によるものである。だが、この技法に相当する形式は、それ以前にも使用されていたとされる。著名なのが、イギリスの小説家メアリ・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelly, 1797-1851)の『フランケンシュタイン』(Frankenstein, 1818)である。
…しかるに、騎士道物語を読みだすと、それが病みつきになり、朝はまだ暗いうちからとっぷりと暮れはてるまで、夜はまだ明るいうちからしらじらと明け放れるまで、耽読したあげく、気がへんになって、自分も、今から遍歴の騎士となり、冒険を求めに乗り出し、世間の難儀を救い、物語にあるごとき功名を立てて、不滅のほまれを得ようと思いたつ。[中略]それから、自分も騎士らしく、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗ることにしたものの、最後に、全身全霊を捧ぐべき思い姫が必要なことに気づいて、思案のあげく、あまり遠くないエル・トポーソという村に、アルトンサ・ロレンソなる小奇麗な百姓娘がいたことを思い出し、これをわが思い娘ときめて、ことわりもなく、名をドニャ・ドゥルシネーア・デル・トボーソと変えてしまう。(セルバンテス 39-40)
妄想たくましい真面目な読書家が、自分勝手に作り出した自分の観念にどこまでも忠実に行動を起こし、ハチャメチャなことを繰り返しつつも、不可能を可能に変えていくという点に、私たちはおかしみを覚えつつ、偉大さを感じるのだ。
[4]Fitzgerald 18
Her eyes flashed around her in a defiant way, rather like Tom’s, and she laughed with thrilling scorn. ‘sophisticated - God, I’m sophisticated!’
(彼女[デイジー]の眼は相当トムの眼と同じように挑戦的な様子できらめいた。そしてゾクゾクさせるような軽蔑とともに彼女は声を立てて笑った。「すれちゃった。ああ。私すれちゃったの!」)(翻訳に当たっては野崎孝訳『グレート・ギャツビー』を参考にしている。)
1章における、デイジーに対するニックが抱く第一印象は、実のところ7章以降で明らかになるデイジーの本性を、言い当てていたということが分かる。そしてジョーダンの「すれっからし」の性格は、共に住むデイジーにも影響を与えている。ギャツビーによって、デイジーへの憧れを持ったニックは、ジョーダンを好きになるが、実際彼は、同じ根から派生した女達に憧れを抱いていた、というのが実際のところである。
それは「洗練」(”sophistication”)に似た様子ではあるが、洗練され切っておらずむしろ腐敗している。これは第三章で私が述べるように、西部の人間という根を持っているために、東部の洗練に馴染み切れなかったことが要因として挙げられるのかもしれない。
‘Whenever you feel like criticizing anyone,’ he told me. ‘just remember that all the people in this world haven’t had the advantages that you’ve had.’(1)
(「もしお前が誰かのことを批判したいと感じたときには、この世の全ての人がお前の持つ優位性を持っているわけではない、ということをまさに思い出すがいい」と彼[父]は言った。)
このようにニックの父の教えというのは、上から目線であり、距離を置いたものの見方である。しかしこの教えの影響で、あらゆる面で優勢性を持っている人物であるはずであるのに、全く敵わない美点を持つギャツビーに対して感動できるのである。
[6]野間氏は著書において、185頁以降に、7章のトムの車がウィルソンの工場を訪れたときに、「病人と健康な者の違いに比べれば、知性や人種の違いは大したものではない」、とニックが内面で考えていることに注目し、病気と健康の次に彼が大事にしているものが知性や人種である、ということを指摘している。そのことについて十頁に渡って、証拠となる要因を挙げている。
野間氏は著書において、新しい『グレート・ギャツビー』の読み方として、非常に目新しい点を、非常に豊富なデータと根拠を以って示している。この著作は、私が論文を作成する際に、非常に参考となる図書として活用させていただいた。野間氏が示した登場人物の捉え方に対してのレスポンスから始まって論が組み立てられていったという感がある。
[8]野間氏は著書の87頁において、このニックとジョーダンのやり取りについて、「ジョージ・ギャレットは、ニックとジョーダンのこの結末を「ニックは恋愛ゲームで負けた」と結論づけている」とし、加えて、「ただしギャレットのこの結論は間違っている。なぜならふたりの恋愛ゲームで負けているのは、ニックではなくジョーダンだからである。ニックは勝っているのだ。それは、ニックの方から別れを言い出している事実からあきらかである」と訂正をしている。
またその一方で、「…ひるがえって考えれば、ニックはこれまでジョーダンを心底から愛したことがあったのだろうか」と述べ、「ニックは本当は女性を愛せないと考えられるのだ」と言っている。氏の主張からすると、ニックは希望を見いだす非凡な才能を持ったギャツビーと共にいることで、かつてのロマンティックな感性を取り戻したかった。そして実際成功している、と言っている。「兵士の故郷」では
「だれも愛せないんだよ、僕は」クレブズは言った。(108)
という発言がある。狙い通りにロマンティックな感情を取り戻した、という解釈は、この作品においてはつまらないので、私は全面的に賛成できないが、ギャツビーの在り方がニックに決定的な影響を与えたのは間違いないだろう。
<http://www.taisei.co.jp/galerie/archive/history.html>最終更新日時:2017年1月25日
[10]モーガンは、鉄鋼トラストでアメリカの五大財閥の一つを形成し、ロックフェラーは、石油王として名を馳せ、カーネギーは、ビジネスライクの作家として活躍し、歴史に名を刻んだ。
[12]トムが、デイジーに対して手を重ねているが、第一章第二節でもジョーダンがニックの手を重ねる描写がある。これは、不穏な方向へと、手を握った相手を誘導していく、という描写なのである。その点では、その描写を見たニックが、彼がジョーダンとの振る舞いをブキャナン達に見出し、自己反省をしていたという解釈をすることもできる。
If personality is an unbroken series of successful gestures, then there was something gorgeous about him, . . . it was an extraordinary gift for hope, a romantic readiness such as I have never found in any other person and which it is not likely I shall ever find again. (2)
(もし個性が途切れることのない連続した身振りの総体であるならば、何か豪華絢爛たるものが彼にはあった…それは希望を見いだす非凡な才能であり、ぼくが他の人の中にはこれまで見たことがなく、これまでも二度と見いだせそうもない浪漫的心情である。)(傍点引用者。翻訳に当たって野崎孝氏の訳本『グレート・ギャツビー』を参照している。)
イギリスの作家ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare, 1546-1616)の『マクベス』(Macbeth 1606)では、
人生は歩く影法師、あわれな役者だ。束の間の舞台の上で、はでな身振りで動き回ってはみるものの、出場が終われば、跡形もない。白痴の語るお話だ、何やらわめきたててはいるものの、何の意味もありはしない。(シェイクスピア 383)
『マクベス』には、人生について以上のようでしかない、と述べてあるが、ギャツビーの希望を見いだす才能というのは、それを超えたものである。どこまでも理想に対して、自己を投機していくことをやめない点が、彼の最大の美点である。
なお、翻訳に当たって参考にした日本語の訳本について述べておくと、最も私が信頼できると考えるのは、野崎孝氏の訳である。学術的にもミスが少なく、原文を正確に、ニュアンスをはっきりと伝えている点で優れている。小川氏の訳は、思い切った訳をしているという感がある。原文通りではないものの、現代の物語として伝える、ということが狙いであるならば、それが見事に達成された訳であろう。ただ、私にはギャツビーが時代遅れの勘違い男である、というとらえ方ができなかったので、小川訳を採用することはなかった。参考文献には挙げていないが、村上訳は、私が読み始めた最初の訳である。小説家としての翻訳ということを、氏も述べているが、まさにその通りの少し自身の解釈が入った訳になっていた。結果的に私は野崎訳を採用し、もし筆者の論文を読むに当たって、ということであれば、野崎訳を私は勧めることになるだろう。
[14]宮脇氏は、自身の著書のあとがきで次のように述べている。
ただ、サブタイトルになっている「ダークブルーの夢」は、二十年以上前から抱いていた構想である。絵を描くことを趣味とする同僚と話しているとき、「『グレート・ギャツビー』の色は何色だと思う?」と突然聞かれた。一瞬の間のあと、僕は思いついた色を答えた――「ブルーだと思います」。「そうだよ。それがわからなければ、この小説は理解できないよ」。(宮脇 189-190)
この評論を読む前から、私には、緑の灯火が意味する可能性の一つに、心当たりがあった。青い芝を象徴するギャツビーと、黄金娘のデイジー。その色が組み合わされば、緑になる、というものだ。緑の灯火とは、二人が熱く溶け合い、愛し合うメタファーだと、未だに私は、この論文を書き終えた後でも思っている。
こうしてギャツビーは自分の城の中で一人その夢を大切に育ててきたのだ。もはやそこに入りこめる者はない。…ただひとつだけ、その堅固な要塞のような城の中に入り込めるものがあった。それはデイジーの声だ。『ふわふわと揺れるほとんど発熱に近い温もりを持つ声』。それは『不死の歌』であった。…それはオランダの船乗りにささやきかけるアメリカの大地の音に似たものだったのだろうか。…この声はギャツビーの夢を音声化したものであるという解釈もできそうだ。それが結局は『金の音』に聞こえるまでに変化してしまうのだ。(宮脇 82、傍点引用者)
ギャツビーは、根っからの神話的人物なのである。彼には、普通の人が聞こえない、神秘的なデイジーの声のトーンを、聞き取ることができるのだ。それを聞いてしまったら、彼はもう一歩も引くことができない。開拓者たちと同様に、自分の力の及ぶ限りを以って、夢に挑み続けるしかなかった。彼は、自分で彼女を愛していると気付いて驚いた、と8章で言っているが、そこには彼の神話的人物性が絡んでくるのかもしれない。
しかしギャツビーにはギャツビーで、厭らしさがなかったわけではない。ギャングとつるみ、悪徳商法をしていただけではない。次のことを野間氏は主張している。
ギャツビーが殺される前日に、デイジーに「あなたを愛していなかった」とトムに言わせることを求めたのは、ギャツビーが恋の狂気に囚われていたからではない。まして「過去は繰り返せる」という極端にロマンティックな精神の発露としての要求でもない。そのことばは、ギャツビーの方をいつも愛していたことを宣言してほしいという、ギャツビーの願望を表している言葉だった。愛のレトリックだったのだ。さらにその言葉も、デイジーがトムと離婚を手早くはたすために考えられた口実だった可能性すらある。さらにギャツビー自体が、そのことばを言うことをデイジーに求めたのは、一度は自分を見限りトムと結婚して子どもまで作っているデイジーにある種の代償を払わせる意味もあったと考えられる。(野間 334-335)
ギャツビーの本来の性質には、野暮で軽薄な面も確かにあった。このようにニックのバイアスを取り除くと見える彼の矛盾は、確かに存在する。実際には滅茶苦茶に過ぎていくのに「痛々しい論争」(tragic argument)(145)と表現しているところから、このギャツビーの欠点にニックが気付いていた可能性はある。したがって「僕が心からの軽蔑を示すあらゆるものを体現していたのがギャツビーという男だった」(”Gatsby, who represented everything for which I have an effected scorn”)というのはそのようなギャツビーの人格を指しているのかもしれない。あるいは、このように言うこともできるかもしれない。陳腐なほど、情けない人間であるのにも関わらず、ニックから見たある点での彼は、確かに騎士道的精神を持つ点でヒーローであった、と。
[16]宮脇氏は次のように述べている。
三十歳を迎えて将来を悲観的に見ていたニックが、ここからギャツビーの激しい夢の実態を、今度は自分の中に感じ始めるのだ。それはもはやギャツビーの「私事」ではなく、ニックの中にも芽生え始めている。いや、それは消えかかっていたものがよみがえってきたと言うべきかもしれない。ここでギャツビーがずっとその胸に秘めてきた「しみひとつない夢」を受け継ぐこととなるのだから。(宮脇 119)
このように、宮脇氏のこの作品の解釈の説明は、非常に情緒的で私たちの胸に訴えかけてくるものがある。氏の著書は非常に高く評価されるべき一冊である。
Then wear the gold hat, if that will move her; If you can bounce high, bounce for her too, Till she cry ‘Lover, gold-hatted, high-bouncing lover, I must have you!’
Thomas Parke D’ Invilliers
ならば黄金帽子を被ろうぜ、それで彼女が感動してくれるなら
もしハイジャンプできちゃうなら、彼女のために跳ぶんだぜ
彼女が「愛しい人、黄金帽子のハイジャンプの愛しい人、
あなたをものにしなくては!」と叫ぶまでは
ここ読み取れる関係は、女性に対して振り向いてもらうために、ジャンプ、すなわち成功の夢を叶えるという、危険を顧みない男性の勇気と、それに対して、簡単に感動してしまう女性の関係である。しかし、いつ女性が黄金帽子に幻滅したり、いつ男性がジャンプに失敗して、足を踏み外したりするかわからない、という危なっかしさも、同時に示している。しかしそれが、私たちが渡っていかねばならない世界なのである。
この契機に文献を紹介しておく。『『グレート・ギャッツビー』の言語とスタイル』は長瀬氏が作品の草稿という資料に基づいて、言語に注目し主に文体について述べた著作である。これは、もちろん統計の取り方にもよるが、言語についての信頼できる数字である、統計というデータを基に論じた著作である。その著作には、この作品が生まれるまでのエピソードについて、「2番目の、そして非常に重要なことですが、この本にはさして重要な女性人物が含まれていません」というほど、男性中心の物語であったのである。したがって、ヒロインの不道徳な空虚性が必要だったのである(p75)。このように述べている。
この小説においては、ヒロインとは、デイジーとジョーダンに、(もし含めるならマートルにも、)当たるわけである。男性の理想になりそうな素敵な女性は一人もいない。この序文は、自らの行動によってそうした、くだらない女性に価値を見いだしていくことの重要性を説いている、と私は解釈している。
[18]誤解を生む危険性を承知の上で、どうしても私が明らかにせざるを得ない、この論文のモチーフの存在を紹介したい。それが、星野源氏(1981-)の「化物」(CD, 2013)という曲である。音楽のテンポの良さや、前向きな歌詞から、この曲を聴いた私たちは、自然と烈しい想いがこみ上げてくる。歌詞の一部を抜粋する。
誰かこの声を聞いてよ
今も高鳴る体中で響く
叫び狂う音が明日を連れてきて
奈落の底から化けた僕をせり上げてく
ギャツビーのデイジーへの感情は、全身で感じられ、押さえらないほど強くこみ上げてくる。そのような心の中の声は、唯一聞こえる人に届いている。その人物とは、ニックである。ギャツビーの思いは、ニックの中に強く反響する。ギャツビーにとっても、ニックにとっても、その思いの籠った自分は、昨日の自分と全く違う存在である。そんな自分が、この世界の運命を手繰り寄せる。たとえリスクを冒し、失敗したとしても。この世とは思えないような世界からあふれてくる、限界などはるかにを超えるような烈しい想いが、今の自分を形成し、明日を彼らは生きるのだ。ギャツビーの烈しさ、そしてそれを受け継いだ新たな自分こそが、ニックにとっての「化物」なのである。この曲からあふれる「烈しさ」によって、私の書いた論文は生まれることとなった。
氏は、一九五〇年代までのこの作品の先行研究をまとめた後、主に”restless”から”drifting”という単語に至るまで、この作品をそれらの概念によって読み解くことができる、ということを主張する。
氏は55頁にまず注目し、人間関係の希薄さ・”intensity”の多義性・風刺の技巧・言葉遣いの対照性について分析し、そこから”restless”という言葉がこの小説を象徴していると言う。そのことを物語の序盤のニックやジョーダン、トムの描写に当てはめて、証明する。”restless”が象徴するこの小説の要素とは、以下のようなものである。
①船のイメージ、並びに海のイメージ(2-3, 8-9, 192)②この作品が時間について扱った作品であること(「過去は繰り返せない」)③ギャツビーが象徴するせわしなさ(68, 70-71)④この小説とは、ニックに対して何が起こるかを書いてあること⑤”restless”から”drifting”に至るまでにアメリカンドリームという夢が示されていること。そして結論として、それらがこの小説の肌理であり、その肌理を作り出している文学的表現とは、まさに糸のような特別な肌理のようなものである、ということである。
氏の論文の功績とは、一つの表現に注目し検証していくことで、抽象的な概念が、具体的かつ明快にまとめ上げられていることである。それに加えて、基本的な議論についても、論理展開の中に組み込み、実体のある普遍性を持った論を作成している点にある。
論文作成の中で次第に、氏の”restless”への注目の仕方を模倣することで、自分の論文を書くスタイルを形成したい、と学部生の筆者は考えるようになった。また氏の論文の分析には、例として”intensity”が挙げられているものの、それは主題にはなっていない、ということに気付いた。そこで、私こそがやってやろう、と刺激を受け”intensity”という語に取り組んだ次第である。
しかし氏が取り組んだように、用例全てに当たったというわけではなく、ただ8章の「ギャツビーの観念の烈しさ」という箇所に絞って、まさに星野源氏の曲を連想しながら、それがこの作品の主題である、と筆者は主張したのである。
作中に、“intensity”は五回出てくる。まずギャツビーのデイジーへの気持ちの烈しさを示した、第二章・第三節の引用である。次に私が論文の骨子として位置づけている、ギャツビーの計り知れない烈しい観念についての第三章・第二節で扱った箇所である。三カ所目は、3章で興味深げに若い俳優に声をかける男性についての55頁である。四カ所目は、7章のT・J・エクルバーグ氏の執拗な視線の威力を示す131頁であり、五カ所目が、8章のギャツビーにとっての息を呑むような烈しさを与えるものとは、デイジーが住んでいること自体だとする157頁である。
”intensity”とは氏も述べているように、多義的な言葉である。一言で表しきれないほど、その言葉に沿って研究するという論を完成させることは、困難を極める。現時点での、筆者の力量や確保できる時間を考えると、卒業論文としてのこの仕事は、これ以上不可能である、と筆者は判断した。筆者は、ハーヴェイ氏のように、具体的な議論を以って論理的に、なおかつほぼ全ての議論を網羅しながら、体系的にまとめ上げた論文を作成する、ということに関しては、達成できなかった。
筆者の功績としては、”intensity”という語について注目した点、そして私が取り上げた、その語の一側面における概念である”human intensity”が、私たち社会に生きる人間における、「普遍性」にまで達している、という主張をした点だと考えている。
参考書目
Ⅰ.第一次資料
Fitzgerald, F. Scott. The Great Gatsby. England: Penguin Essentials edition. 2011
Ⅱ.第二次資料
Harvey, W. J “Theme and Texture in The Great Gatsby”. English Studies XXXVIII, February 1957, pp12-20
アレン, F、L著『オンリー・イエスタデイ 1920年代・アメリカ』藤久ミネ訳、筑間書房、1987年
『偉大なるアンバーソン家の人々』 脚本・監督:ウェルズ・オーソン, 出演:ジョゼフ・コットン、ドロレス・コステロ, 音楽:バーナード・ハーマン DVD. インターナショナル・プロモーション, 1942年
『華麗なるギャツビー』 脚本:バズ・ラーマン 脚本:バズ・ラーマン, クレイグ・ピアース, 出演:レオナルド・ディカプリオ, トビー・マグワイア, キャリー・マリガン,ジョエル・エドガートン, 音楽:クレイグ・アームストロング, DVD. ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズ, 2013年
シェイクスピア,ウィリアム著『シェイクスピア集 10 世界文学全集』小津次郎訳筑間書房、1976年
諏訪部浩一『アメリカ文学入門』三修社、2013年
セルバンテス, ミゲル、デ著『ドン・キホーテ[正編一]』永田寛定訳、岩波文庫、1988年
竹林滋編『ルミナス英和辞典 第二版』 研究社、2005年
太宰治『走れメロス』 新潮社、1967年
長瀬恵美『『グレート・ギャツビー』の言語とスタイル』 大阪教育図書、2013年
野間正二『『グレート・ギャツビー』の読み方』 創元社、2008年
「化物」 作詞・作曲:星野源 『stranger』 CD. ピクターエンターテイメント, 2013年 <http://www.kasi-time.com/item-66461.html> 最終更新日時: 2017年1月25日
フィッツジェラルド, フランシス、スコット著『グレート・ギャッツビー』小川高義訳、光文社文庫、2009年
フィッツジェラルド, フランシス、スコット著『グレート・ギャツビー』 野崎孝訳、新潮社、1974年
ヘミングウェイ,アーネスト著『われらの時代に・男だけの世界』 高見浩訳、新潮社、1995年
宮脇俊文『『グレート・ギャツビー』の世界――ダークブルーの夢』 青土社、2013年
村上春樹『ノルウェイの森(下)』 講談社、1987年
リーハン, リチャード著『『偉大なギャツビー』を読む――夢の限界』 伊豆大和訳、旺史社、1995年
ロッジ, デイヴィッド著『小説の技巧』 柴田元幸訳、白水社、1997年
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