The Educated Imagination (Frye)翻訳 1.比喩の原動力

過去20年間に渡って、私はある大学で英語文学を教え、研究してきた。

他のどんな仕事でもそうであるように、人々がそれらを尋ね続けるからではなく、それらがそこにあるというまさにその事実によって歓喜さえた問いであるため、ある問いは人の心にいつまでも残る。

文学研究はなんの役に立つのだろうか?

それは、私に、それなしである以上に、よりはっきりとものを考えさせ、あるいは感受性豊かに感じさせ、あるいはよりよい人勢を送ることへの手助けをするだろうか?

教師や教授、あるいは私のように、文芸評論家と呼ぶ人の役割とは何だろうか?

社会的、政治的、宗教的態度において。 文学研究とはどんな差異があるだろうか?

私のここ数日、こうした問いはほとんど考えなかった。

私がそのような問いを持たないからではなく。私が尋ねたどんな人もナイーブだと推測したからだ。

私は今最も易しい問いは。答えるのが大変なだけでなく、最も尋ねるに重要な問いであるので、私はそれらを取り上げて、私の現在の答えが如何様であるか提示しようと思う。

私は提示しよう、と書いた。

何故なら、多かれ少なかれそうした問いへの不適切な答えというのは存在するからだ。しかし正しい答えがないわけではない。

文学が挙げる問題の種は、あなたが「解決」できる」種のものではない。私の答えが役立つかどうかそれらは問いについて考えることへのかなりのものを表現している。私が徴収を見られないので、私は自己の暗い中の修辞的形式を採用し、私は教室の様式を採る。

何故なら学生という聴衆が私にとって最も気楽に感じられる聴衆だからである。

(p13-14、29/3/28更新)

私が君たちと議論したいことは、とり分けて二つある。

学校で、大学で、英語を話す国々で「英語」と呼ばれる科目についてだ。

英語は、まず第一に、母語である。

そうであるから、英語は世界で最も実用的な科目である。

あるいはそれなしには、君は全く理解せず君の社会においてはどんな要素もつかめないかもしれない。

読み書きができないことは、どこでも問題である。

充分にものを食べられ寝る場所を得ることができないのと同じくらい基本的な問題である。

母語は他の全ての研究の対象より優先されてきた。

他の何ものも有用性においてはそれとは比べるべくもない。

しかしその時君が他のあらゆる母語がどんな発展途上国でも文明社会でも文学と呼ばれる何かに変わったのを見つけるだろう。

もし君が「英語」を学び続けるのなら、君はシェイクスピアやミルトンを読む自分に気付くだろう。

文学、私が言っているもの、それは芸術の一種で、絵画や音楽と同様、君があらゆる固い言葉と古典的な引喩を調べ上げ、詩的表現や言葉遣いのような言葉が何を意図しているか、君がそれをどのような理解において使っているかということを学ぶことは、即ち君が言うように創造力だ。

ここには君が全く同じ実用的、有用な空間があり、シェイクスピアやミルトンは、君が社会における占めるべきどんな地位を知らなくてはいけない種のものでもない。

(p14-15、29/3/29更新)

文学について何も知らない人というのは無学な人かもしれないが、多くの人はそうであることを気にしない。

子どもならだれでも、文学が自分を異なる方向へすぐ役立つところから捉え、多くの良い子供たちはこのことを大声で主張する。

そこで私たちがまず取り扱いたい二つの問いとは、文学英語に対する母語としての英語の結びとは何か、そして文学研究の価値とは、学習過程において文学が本気で立ち向かう創造力の地位とはなんであるか、である。

私たちが生きている世界で扱っている様々な方法に取り掛かってみよう。

もし君がだれも住んでいない南海の島に難破することを考えてみれば、だ。

君がまずすることは、自分の周りの世界を長く見てみることだろう。

すなわち君の周りの、空、海、地球、星、木々、丘、の世界である。

君はこの世界を目標として見て、とにかく君に対しての、君自身でなく、君に関連してもいない世界として位置づけるだろう。

そして君がこの目標となる世界の二つの物事に気付くだろう。

まず第一に、どんな会話も必要とはしないのだ。

それは動物、植物。昆虫、自分たち自身の営みを行っているもので溢れている。

しかし君に反応するものは何もない。

それにはモラルもなく、知性もない、少なくとも君がつかめるものなど何もない。

それは形をとって意味を成すものかもしれない、

しかしそれは人間の形や人間の意味をとることはない。

そのような世界では、充分に食べるものがあったとしても、危険な動物がいなかったとしても、君は孤独を感じ、怖れ、必要とされないであろう。

(p15-16、29/3/30更新)

第二に、君は自分に向けられたものとして世界を見ることが、二つに心を分裂させるのに気付く。

君はそれについての好奇心を感じ、それを学びたがる頭脳を持ち、君はそれを美しい、あるいは厳格な、あるいは酷いとみる感情や感性を持つ。

少なくとも君に、これらの態度両方がある現実性を持つということを君は知っている。

もし難破した船がヨーロッパの船なら、君は多分自分の頭脳が自分に外の世界において何かがそこにあるのかをより訴えかけること、自分の感情が自分の内側で何が起きているのかについてより訴えかけることを感じるだろう。

もし君の経歴が中東出身だとしたら、きみはこれを裏返して、美か恐ろしいものは本当にそこにあるものだと言い、そして君の構成要素へと勘定に入れ、格付けし、推し量り、引き抜く本能は君の心の中にある。

しかし君がただ世界を見ているだけでは、視野の一点がヨーロッパか中東かどうか知性と感覚は決して君の心の中で一緒になることはない。

それらは変化し、それらの間で君を分裂したものにさせる。

(p16-17、29/3/31更新)

君がこの心層で使う言語は、意識或いは自覚における言語である。

それは概して名詞の言語と形容詞の言葉だ。

君は事物に名前を付け「濡れた」、「緑」、「美しい」のように、いかに君にとって事物を感じられたかを描写する性質が必要となる。

これは思索的、沈思黙考する精神の態度であり、それは芸術と科学が始めるものだ。

たとえそれらがあまり長くそこに留まらないとしても。

科学はそれらを変化させようとして見ることをせずに外界についての事実やしるしを受け入れることによって始まるものだ。

科学は寸分違わぬ計測と説明によって進行する。

そして感情よりもむしろ理性の要求によって続いていく。

私たちがそれを好きかどうか、そこにそれが何を処理するかがある。

勘定とは、理性で説明のつくものではない。

それらにとって、まず第一に来るそれらが何を好み、何を好まないのかということだ。

私たちは自然と芸術が、科学とは対照的に、感情の横道にそれて続いていくことを考える。

それらが為すことに至るまでに、しかしながら複雑に折り重なった要因が存在する。

その要因とは、「私はこれが好き」と「私はこれが好きでない」の対照である。

君に帰するロビンソン・クルーソーの人生の中では、君は完全な平穏と楽しみという気分になることだろう。

それは君が自分の島と、自分の周りのあらゆるものを受け入れたときになるものだ。

君がそういう気分にしばしばあまりなれないのは、君がそうしたときに、君が島が君の一部であることを発見し、君がその一部であることに気付いた時、同一化の気分になるだろう。

(p17-18、29/4/1更新)

それは意識或いは無意識の感情ではなくて、そこでは君は自分自身の知覚ではないあらゆるものから分裂させられたと感じる。

君のいつもの精神状態は、意識的であるというのを伴う分裂する感情であり、「これは私の一部ではない」という感情は、すぐに「これは私の求めているものではない」にすぐなる。

「求めている」という語に注目するがいい。

私たちはそれに向かって戻っていく。

だから君が生きている世界と君が行きたいと思う世界の間には違いがあるということを君はすぐに確信する。

君が生きたいと思う世界は人間の世界であり、実在のものではない。

それは環境ではなく、故郷である。

それは君の見ている世界ではなく、君が見ているものの外で築かれるものである。

君は倉庫を作るか庭を作るかするために仕事に出かけ、仕事を始めるや否や君は人間の生活の異なる水準へ動く。

君は今自然から自分自身だけを切り離しているのではなく、人間の世界を構築し、それを世界の残りから切り離している。

君の知性と感情は、今両方とも同じ活動に関わり、それでもはやそれらの間には現実の違いはない。

君が庭を作り、作物を植えるや否や君は「雑草」という概念を開発する。

君がそこに欲しくないものだ。

しかし君は雑草が知的である、あるいは感情的である概念だとは言わない。

なぜならそれは共に一度だけのものだからだ。

(p18-19、29/4/2更新)

もっと言えば、自分が仕事に行かねばならぬと感じるから君は仕事に行き、仕事の終わりの何かが欲しいと思うから君は仕事に行く。

それは人生の重要な範疇がもはや主体であり、対象であり、見る人と見られている物事である。

最も重要な範疇は君がやるべきことと君がやりたいこと、言い換えると必要と自由である。

ある人彼自身は完全なる人間ではない。

そこで私は君に、別の対立する生徒最終的な家族の難破した避難者を提供しよう。

さあ、君は人間社会の一員だ。

このしばらく後の人間社会は、島を人間の形をした何かへと変える。

その人間の形をしたものは、君がやるべき仕事の姿へと自然と現れる。

建物、それらのような、動物が食べるものならなんでも、囲いをして仕切られた、木々を抜ける小道、植わった作物。

こうした物事は、つまり町や、高速道路や、庭や、農場の基礎は、自然の人間の庭、あるいは人間性の型、君が好きなあらゆるものだ。

これは実用的な芸術や科学の地域であり、どうやら工学や農学や医学や建築学としての私たちの社会に思われる。

この地域では、芸術が止まり、科学が動き、あるいは逆もまた然りであるということを、私たちははっきりと言うのをやめることができない。

(p19-20、29/4/3更新)

この水準で君が使う言語は、実用的意味での言語であり、動詞の言語或いは行動の単語である。

実際の世界はしかしながら、行動は単語よりも声高に叫ぶ世界である。

いくつかの方法で、それは思索的な水準以上に高い存在の水準である。

何故ならそれはそれをただ見ているだけという代わりに世界の何かを行うことであり、それ自身においてそれはより初期段階の水準である。

それは環境に対して受け入れる過程であり、もっと正確に言えば、ある種の関心における環境を変化させることであり、動物、植物、そして人間も同様にその中で続く。

動物は十分な多くの実用的技術を持つ。

昆虫の中にはとてもなかなかの建設者がおり、モグラたちはかなりたくさん工学について知っている。

この島にはおそらく、そして確かにもし君が一人きりなら君は二流の動物の順位を付けただろう。

私たちの人生を本当に人間らしくするものは、精神の第三段階であり

意識と実用駅に技術が一緒になった水準である。

この第三の基準は君が城築上げたいと望む自身の精神における将来像や模範である。

ここであの「望む」という単語が再び出てくる。

人間の行動は欲望によって誘発され、そうした欲望のいくつかは、食料や温かみや住まいのように必要なものである。

(p20、29/4/4更新)

こうした必要の一つは性的なもので、再生産し、存在へより多くの人間のもたらす欲望である。

しかし存在へと社会的人間の型をもたらす欲望も存在する。

私たちが文明と呼ぶところの町や庭や農場という型である。

多くの動物や昆虫は、この社会的型をまた持っていて、しかし人間はそれを彼らが持つと知っている。

彼は自分がなされたものを想像することに関して処理することと比較できる。

それで私たちは想像力が人間の都合の計画のどこに属するか見始める。

それは人間存在の可能なものになんでもなる。

しかし実際には何も起こらない。

もしそれが起こるなら、行動の世界への創造力の世界の外側へとそれは動くだろう。

私たちは今三つの精神の段階を持つ。

そしてそれらのそれぞれの言語は、英語を話す社会においてそれらにとってそれぞれの英語である。

意識或いは自覚の水準があり、そこで最も重要なことは、私と他のあらゆるものとの間の差異である。

この水準の英語は、普通の会話の英語であり、それはほとんど独白である。

君はすぐに君が少し立ち聞きするか、自分自身聞き耳を立てているか確信する。

私たちはそれを自己表現の言語と呼ぶ。

(p21、29/4/5更新)

そして社会参加の段階があり、働く上でのあるいは技術と教師、説教者、政治家、広告主、法律家、ジャーナリスト、科学者の言語がある。

私たちはこれを実用的な意味ですでに呼んできた。

そして想像のレベルがあり、詩の、戯曲の、小説の、文学的なレベルの言語を生み出す。

それらは実際は異なる言語ではなく、当然、言葉を使うのには三つの異なる理由である。

この基礎では、当然、私たちは科学と芸術を区別することはできない

私たちは住むべき世界で科学は始まる。

そのデータを受け入れ、その法則を説明する、そこから創造力へとつながっていく。

それは静止イン的な建設となり、存在を受け入れる可能な方法のモデルである。より一章遠くこの方向へと進むほど、文学や音楽に加えて、それはより数学の言語を話す傾向になり、それは本当に想像の言語の一つとなる。

藝術は一方においては私たちが築く世界を、私たちが見る世界を伴うことなく始まる。

それは想像力とともに始まり、そしてそのとき普通の益軒へと働きかける。

つまり、それはそれ地たちを可能な限り納得し認識できるようにする。


君は何故私たちが科学を理性的なものと捉え、芸術を感情的なものと捉えるかわかるはずだ。

それ自体の一つの世界の一つの始まり、もう一方は私たちが持ちたいと欲する世界。

ある点までは、科学が現実の理性的な視点を与え、そして芸術は科学が理性的であるのと同様に正確でしつけられたものであるように、感情を生み出そうと努めるものであるのは真実である。

しかし当然、科学者を冷たい感情のない理論家として考えるのはナンセンスであり、芸術家を永続的な感情的に取り乱した人だと捉えるのはナンセンスである。

君は芸術を科学から民族がそれらの内で使う精神の過程によって区別する。

それらは共に、直観と常識を作用するより高度に発達した科学と、より高度に発達した芸術は、心理学上、その他でもともに非常に似通っている。

それでもなお、それらが対立する端緒からスタートしたという事実は、たとえそれらが中間で出くわすことになったとしても、ある重要なそれらの間の差異を生み出す。

科学はそれが続く限り、世界についてよりたくさんたくさんのことを学ぶ。

それは発展し、改善する。

今日の物理学者はニュートンが知っていたより多くの物理学を知っている。たとえそれがそれほど偉大な科学者でなくとも。

しかし文学は、経験のありうる型により始まる。

そしてそれが生み出すものとは、私たちが古典と呼ぶ文学的な型である。

(p22-24、29/4/9更新)

Y.S アメリカ文学をこよなく愛する人のホームページ

初めまして。愛媛大学法文学部でアメリカ文学を専攻し2017年度に卒業した者です。 卒業論文を書き終わった後に、とにかく楽しく社会人になってからも少しずつでいいので学問を学びたいと思い、このページを立ち上げました。学会にも入れたらいいかなと思っています。 アメリカ文学だけでなく、人文学一般について書き込みしていきます。

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