"Theme and Texture in The Great Gatsby"翻訳

「『偉大なるギャツビー』の主題と肌理」


w・J・ハーヴェイ著、山田将大訳



 The Great Gatsbyにおける評論――それは決して伝記(フィッツジェラルドの伝記)かジャズエイジの回顧録にも脱線しないときには――は二つの論点に集中する傾向にあった。これらの論点のまず第一は次のようなことがテーマとなってきた。すなわちこの本のモラルの真剣さ[本当にこの本はモラルを追及しているのかということ。]そしてありとあらゆる答え――もしあればだが――それが与えられ得る敵意のある批評に対してである[ギャツビーに文学的価値が本当にあるのかということ]。

それはジョン・フェアリーがScrutinyという雑誌に書いてあるのがよい例である。

私は以下のようなことを提言したい。彼の作品には空虚さがある。それによって人を確信させるような分析が実に難しくなっている。しかしその空虚さによって数々の評論家が評論家自身のフィッツジェラルドの代用品を作り出さないとも限らない空虚なスペースが、あとに残る。[フィッツジェラルドは価値観の主張などしていないのに好意的な評論家は自分のフィッツジェラルド像を投影して作品を解釈するのである。]そして私は徹底的に突き止めてみようと思っている。すなわち私たちが一人の作家の作品の核心と呼ぶものの中の空洞について。彼(フィッツジェラルド)は経験を核心のあちこちに組織化し、経験を核心に関連して組織化した。その核心というのが価値観である。

 これと綿密に関連してくるのが次のような問題である。私たちがギャツビー、彼こそにどのような地位を認めるべきであるかに関しての、問題である。特に彼を神話的な登場人物として見る、そして小説全体を、なんらかの深く根差した、そして何度となく繰り返される「アメリカンドリーム」の表現として見る

試みについて私たちは注意してしてみるといいかもしれない。[論点は二つ。①この作品が本当にモラルを真剣に問うているのか、ということと、②ギャツビーという人物をどのような地位に置けばいいのかということ]

私たちはこれらの問題の第一を徹底的に討論してきた。そしてもし[第一の問題についての問題について]どちらの立場も[反対派の]もう一方の信念をあまり揺るがしてこなかったとしても、問題点はいずれにせよ明確には定義される。その一方でアメリカ人ではない人は誰でも、[次のような]自然な気遅れを感じることだろう。自然な気後れというのは第二の話題に関するいかなる意見を表現するにしてもである。[アメリカンドリームの象徴ということに関しては、アメリカ人でなければ論じにくい点があるからである]ところが実際は大部分の読者に強く印象を与えるものは――特にもし彼らがフィッツジェラルドの初期の作品を読んだ後、The Great Gatsby まで来たとなると――モラルのテーマ[第一の論点について]でも国民的な原型[第二の論点について]でもなくはるかにもっと単純な何か、あまりにも明白ななにかである。

あまりにも単純明白であるというため、おそらく、何かというのは意外なことに、ほとんど全く注意深い評論家の技術をまさに受容してこなかった。[フィッツジェラルドはそれまでの作品から急に素晴らしい作品を書くようになった。それによって生まれた問題があまりにも単純明白な問題なので、見落とされている問題が確固としてある。というわけでこの私[ハーヴェイ氏]がその評論に取り掛かろうと思う]

技術的な力量と批評的注意力の(私たちを)驚かせるような増大を私はここで指している[

ここにきて、フィッツジェラルドが素晴らしい小説家として成長したということ]初期の作品と比べてさほど大げさではなく、それに比較してThe Great Gatsbyはさらに多くの達成をしている。その作品の中で、フィッツジェラルドは真実の主題だけではなく、全く十分に適した形式をも発見している。

これについて述べることは、疑いなく、次のことに同然である。彼が成熟にもまた到達したということ。その成熟というのは、単なる審美性を超越し、

The Great Gatsbyの作品中のモラルの含みにおいてもまた自然と現れる。

 ほぼあらゆるこの作品の評論家はとてつもなく大きな語り手の構造的重要性を強調してきた。その語り手とは、ニック=キャラウェイであり、次のような登場人物である。その登場人物を通してフィッツジェラルドは彼自身の経験からの審美的な距離を置くことを達成している。コントロールの確かさと、知覚の明晰さにはその審美的距離がどうしても必要不可欠である。そして彼はニックを通して以下のようなことを巧みに表現しうる。安定したモラルの理想像のあいまいさ、すなわち感覚――内にいながら同時に外にいる感覚[

The Great Gatsby 2章の表現である]、(読者を)魅了されると同時に、嫌悪感をも感じる感覚を表現する。それは汲めど尽きせぬ人生の多様性(読者の人生経験)によってである。物事の真実への洞察力はその生き方から生じるに違いない。ウィリアム・トロイは巧妙に、そして簡潔に要約した。

初期の作品では作者と主人公がお互いに溶け合う傾向にあった。というのも内的な差異の原則がなかったからである[フィッツジェラルドは自らを主人公に投影しがちであり、それは主人公と彼とをどこで線引きするか、どこで区切るかということをしていなかったためである]。そして初期の作品の作者と主人公はひょっとしたらそうした内的差異の原則のなさによって区別されるかもしれない。というのも初期の作品の作者と主人公は同じ感情的、モラルの風潮の元呼吸しており、同様の特徴を共有している[一九二〇年代という時代を映した小説として描かれた初期の作品は、作者自身が主人公に溶け合っており、そこが難点だった]。けれどもギャツビー(という作品)においては分離が達成されている。フィッツジェラルドは彼自身の一部を切り離して考えることをそれによって可能にしている。彼自身からの、凡庸だが非常に感性の鋭い語り手という人間における傍観者的であり審美的な部分、そしてまたより知性であり責任感ある部分の一部分を取り分けておいて、もう一つのジェイギャツビーという人物におけるセントポール[フィッツジェラルドの出身地である]そして、プリンストン[フィッツジェラルドの出身大学である]出身の夢心地な情熱的な青年期とを区分けした[自分のペルソナをコントロールし、使い分けられるようになったことが成功の秘訣である。すなわち、ニックという判断の面(リアリスト的)とギャツビーという行動の面(ロマンチスト的)と。欠点というものがないと、人はそれほど受け入れられないのかもしれない]。

 繰り返しになるが、大方のこの本の評論家は十分にこの本の簡潔さを証明した。そして語りの基本的特徴の明晰さを証明した。一ページ目から結末まで推し進めていく説得力ある途切れることのない小説の駆動力を証明した。駆動力というのが契機であり、非常に巧みに書き入れられた物語の中に埋め込まれている回想からの勢いを一つにまとめ上げ、衝動を得ているような推進力でもある[語りの時間の順序が入れ替わっている。それによってあらすじ、物語はわかりにくなりそうだが、実はわかりやすくなっている。流れがかえって前に展開していくのである。それは途切れることなく、ハラハラドキドキで読み進められる。回想シーンをまとめ上げ、個々のシーンから勢いを得てもいる。これらはもう自明のことである]。

この本の主な象徴的な構造の重要性を多くの評論家が議論を発展させ、解説してきた。というのは実に、この小説の伝説上の本質を執拗に主張することは、この本の象徴的構造に関して言い張ることに他ならないからだ。様々な議論がなされていてもっと言及できるのは何であろうか。フィッツジェラルドの技巧の熟達についてである。その側面で受けるのは、普通の注意の役割ではない[新たに付け加えることがあるとしたらそれは何であろう]。

 私は非常にごくごく単純に、是非この本の言葉について議論してみたいと思う。ここで私たちは対立していながら同時に存在する言葉の効率の良さ、あらすじの明晰さ、回想からの力強さ、と共存する形でとんでもない肌理細やかさに気づくことになる。言葉というものはこれから述べるようなことだ。この肌理細やかさこそが根本的に豊かさと深みを小説に与えるものである。もしこの肌理細やかさがなければ、より大きな象徴は読み手の心理における反響する力は失ってしまうだろう。[相互関連の効果、気づかなくても雰囲気でわかる、理屈でわからなくても感

じとしてわかるのである][より大きな象徴は肌理細やかさにより担保されている]現実に感じられて想像力豊かに体験された身振りの背後にある人生の圧力の裏付けがなかったらこの本における主要なテーマは知性のポーズ[

頭の上だけの議論である]なり、感情的なポーズ[感情的に受けるだけになってしまう]に過ぎない[なくなってしまったらあろうが知性、感性の問題になるだろうが、人生の圧力の裏付け(折り込み)があるので、知性、感性だけの問題とはならない]。

 私たちは相当に細かく記述されている文の一節の分析を始めてもしてみるのが一番よかろう。私のここでの目標は次のようである。肌理の細部は単に、言わんとするところと印象が部分的であるだけではなく、この作品に表現された中心的なテーマと顕著なモラルの考え方に関連しているということを示すことになるだろう。書き言葉の分析は困難で、稚拙でぎこちないなものになりがちである。しかしこのまさにぎこちなさが遠回しに巧みさや効率の良さにつながっている。フィッツジェラルドが与えようとしている印象とはそうしたものだ。私は例としてある一文を取り上げ、作品に描写されている初めてのギャツビーのパーティーの最後を扱う。パーティーの魅力とそして魔力――フィッツジェラルドよってとても鮮やかに喚起されたものなのだが――というのが、ここでは溶け合ってしまった。そのため、夜の陶酔と音楽、シャンパーニュと若者が、突然消えてなくなった[酒による酔いと音楽、パーティーの主役の若者がいなくなって、結婚している人たちだけになって見えてくるものがある。]それは素面のリアリティーへの気味の悪い回帰、あるいはより正確に言うなら、二日酔いの幻滅した社交界への回帰により場面は締めくくられる。パーティーは終わる。帰宅の時間だ。ここに引用部分を載せる。


「僕は辺りを見回した。残っている女性の大半は、夫と称する男たちと交戦状態にあった。(1)

 ジョーダンの連れの一行(イーストエッグから来た四人組)も意見の相違によって今では点でバラバラになっていた。そのうちの一人は、並々ならぬ熱意を込めて、年若い女優と話し込んでおり、(2)その妻は威厳をもって、そんなものは取るに足らないことだと、涼しい顔で笑い飛ばそうとしていたのだが、ついに堪忍袋の緒が切れて側面攻撃に打って出た。怒りに燃えるダイアモンドのように、定期的に夫のそばにぬっと現れ、その耳元に「あなた、約束したでしょう!」ときつい声で囁きかけるのだ。家に帰りたがらないのは、羽目を外した男性ばかりではなかった。廊下は現在のところ、悲惨なまでに素面な二人の男たちと、怒り心頭に発したその妻たちとによって塞がれていた。(3)

 妻たちはいささか甲高い声で、お互いを慰めあっていた。

「私がちょっと楽しい思いをしているのを見ると、うちの人ったらいつも、さあもう引き上げようって言いだすんだから」

「そんな身勝手な話ってないわ」

「パーティーで最初に引き上げるのは、決まって私たちなんだから」

「うちもおんなじ」

「でもね、今晩は僕らはもう最後の客になっているんだよ」と夫の一人がおずおずと口をはさんだ。「楽団も半時間前に引き上げてしまったぜ」

 なんて興ざめなことを言うんでしょう、そんなの全然横暴だわ、と妻たちの意見がぴたりと一致したにも関わらず、有無を言わせぬ実力行使があり、どちらの妻も空中に担ぎ上げられ、夏の世にばたばたと足を蹴り上げながら、いずこかに運ばれていった」。(4) (55, 村上99)


 まず初めに私たちは単に調子がよくもっともらしいだけの記述の一部分のかけらにだけ関心があると感じられかねないかもしれない。何かというとそれは、「怒れるダイアモンド」のような直喩である。たぶんいささかしゃれてい過ぎて、いささか意識的に巧み過ぎて不自然である[単なる直喩を問題にしているのではないのだ]。つまり今にも表現の凝りすぎになるのではないかと恐れている。しかしこの直喩を離れると、ほとんどの主要なテーマがどのように言及されているかについて、表面上の、皮肉な論評とはどのようであるかという点が、横道にそれながら、私たちはわかるかもしれない。[私が述べようとしているのは、作者の扱う根本的なテーマについてである]私は私が提示する4つの短い文について注目できればいいなと思っている。参照の便宜上、イタリック体にし。番号を付けた。

 (1)この文は、どんな人々にも人間関係というものが欠けていおり、社交界の性的モラルに関する明白な含みとは全く無関係な根無し草の人々、そして移ろいやすい人々についても関連している[正常な人間関係が欠けていて、性的なモラルのかけらも感じられないという点が指摘できる]。それは複雑なおしゃべり、うわさ、風刺のネットワークにおけるこの作品全体を包括する構成要素であり、これは私が後に議論しようとする要点である。[

騒がしさのようなものが作品全体にある]

 (2)ここでは、強さとは一義的には、好奇心のこと以外の何物でもない。

もちろん含蓄されたつながりは明々白々である。しかしもう一つの意味としては、すなわち強さが好奇心であるということのもう一つの意味としては、これが浮ついていて皮肉な、そして厚かましい快楽主義者の社会であり、しかし決して誰にも何にも同情がない点で強いということである[といっても、定義づけるならそれは強烈さはおせっかいということではない]。厳密な意味では、それはパーティーを主催するという下品な人としての強さと、デイジーへのギャツビーの夢という情熱という対比をなしている[強烈さ、熱烈さ自体の中に、ギャツビーの二面性が織り込まれている]。

 (3)ここでフィッツジェラルドは一般的な風刺の技巧を用いているのだ。規範としての逆のことを受容するふりによって、彼は倫理的体系を実施しているのである[言いたいことをそのまま書いても伝わらないので、あえて書きたいことと反対の表現をすることで自分の言いたいことを伝える]。無論真面目さはあさましいものとなる。さらに、どれほどその文の構文の調和によって、私たちは何気ない関連性が、均衡を保っている要素の群だと判断していることだろうか。[風刺として書いている描写が調和しているために、次のことを推論させることになる]「妻たちは憤慨している、というのも男たちは酔いが醒め、それゆえに家に帰りたがるのだから」というこの文についてである。私たちはこれと、フィッツジェラルドが多用するもう一つの技巧、すなわち、何も意見もつけず単純に並列することで、論点を作るための手法とを関連付けるのがよかろう。それは例えば、ポープにおけるよく引用される詩の一行と類似した手法である。それはpuffs,powders,patches,Bibles,billets-douxである。

 この一つ一つの目的語のような目録の中においては、(それは)私たちは同じような状況ではないかと思い込む。そして作品がその文の前後関係の重大性も凡庸性も共有されるものとして扱われるかもしれないという事実は、充分そのような同等物が考慮されうる社会を示している。それはフィッツジェラルドにおいてもそうである。例えば、私たちは、人々がポロをし、裕福であればどんなところでも、トムとデイジーはふらふらとやってきた、と語られている。

そこでは、ポロをすることと、豊かであることとの並列が表面的であり、たわいないことを示唆している[ポロをすること、豊かであることの並列には本当はもっと深い意味があるが、それは一見見えにくいものである]。ある人はむしろ異なる効果が達成されていることを発見している。それは、ギャツビーのパーティーにおける、フィッツジェラルドの描写においてみられる。「青みを帯びた庭園には、男たちや娘たちがまるで蛾のように集まって、ささやきや、シャンパンや、星明りの間を行きかった」。

 (4)さて、ここでフィッツジェラルドはもう一つの効果をもたらしている。ここでは言葉遣いの対照によるものだ。

 書き出しの半分では、多音節の抽象概念を伴って、英雄っぷりの膨張につながっている[

一つの長い単語、多音節の単語を使い、あえておちょくるような雰囲気を醸し出している]。だがそれは、半分の第二文における突然の際どい事件を描写することによって即座に萎ませる。こうした分析は車輪の上の道楽者の気持ちをくじくことだと思われるかもしれない。しかし非常に不自然なその事実は、単に自覚的な順序だった説明に、私たちが、何気ない小説の読解における、すぐに自覚的に反応する何か、をもたらそうとする結果に過ぎない[道楽者が突然発生することを公式化しがちだが、そういうことではない]。だがもしそれが以下のようなことを示すことに一役買うならば[どうも公式化は散文の喜劇的要素をしめす働きがあるようだが、それは世間の人の小説の読み方であって、作者の意図したことではない]そのことは目的にかなっただろう。つまり散文の快活さと陽気さの影響下に、フィッツジェラルドは見解を維持しているのはではなくしつこいモラルの圧力を維持している。そして私たちの心構えと反応を、手引きしていて、覚悟を決めさせている。だからこそ、必要に応じて、私たちは正しい評価をするべきだ。彼の視点の小細工を通してなされる全てであり語り手であるニック=キャラウェイのおかげで、私たちは問題にできる立場でいられる。また彼は小説の落ち着かなさ、前兆的な揺れと最後の大惨事の発生のモラルの地震としての役割を果たす[ニックの視点で物語は語られ、落ち着かなさというモラルの基準値を図る役割をしている]。

 私たちはこの分析範囲を拡張してもよかろう。次のことに注意することによって。すなわちどれほど重要表現が微妙にしかししつこく繰り返されるか、そしてどれほど非常にその作業が非常に見事にまとめられており、非常に傷がなく簡潔でもあるため、これらの言い回しは必然的にもう一つの言い回しへそしてもう一つの言い回しへと誘導してしまうか、[作品の完成度と、その中でどのように重要表現が繰り返されるかを見るかということを分析すると、次のようなことになる]そのため、この作品を読者はどこから読み始めても、――その側面ではフィッツジェラルドが強調しようと選んだ言い回しはなんでも――読者の注意は、小説全体を取り囲んでしまうまでは、一連のずっと広がっていく視点に携わっている。ということに際して。それでは全く勝手気ままに”restless”という言葉に取り組もうではないか。というのも、もしこのちっぽけで明白に重要でない準動詞の糸口を本腰を入れて取り組んで見たなら、多分私たちが、すぐはっきりとこの作品の本質へと導かれることが分かるだろうから。かなりたくさんの他の出発点のどんな人でも同じことをするだろう。いくつかの以下の例について考えてみよう。

(a)ニックについて:私が参加した少し後、すなわちあの先のドイツの民族移動は、大戦争として知られる。私は襲撃の復讐を、帰ってきた私がそわそわするほど、非常に軽率に楽しんだ。

(b)トムについて:彼はロングアイランドの状態を調査し、「俺は素敵なこんな土地を得たものだ」と、眼を休みなく輝かせながら言った。後で彼は休みなく部屋の周囲をそわそわして歩き回っていたのを目撃されている。

(c)ジョーダン=ベイカーについて:彼女は体つきは、そわそわした関節の動きを伴って強く自己主張し、彼女は立ち上がった。

 私たちによって選ばれたキーワードのこうした事例は――起こっている全ては小説の最初の20ページ以内に書いてあるが――突然の動きががたがたであるとも衝動的であるとも連想させる別の表現により込み入っていて補足的だ。

それは

トム・ブキャナンは力のこもった腕を有無を言わせず僕の腕の下に差し入れ、さっさと部屋から連れ出した。まるでチェッカーの駒を別の升目に移すみたいに。(8, 村上p28)

という表現だ。

 或いはそれとは対照的にジョーダンについてだが、

 彼女はあくびを一つすると、てきぱきした一連の素早い動さで身を起こし、床に降り立った。(11, 村上p)

 私たちは次の三点について再び注意するのがよかろう。どのようにフィッツジェラルドがよく局所的効果を得るかについて。第二の例において、その文に対しての独特の作用への普通使わない前置詞はどのようにもたらすか。トムの描写において、どのように言葉が命令的に無理やり言葉に対して作用するか。そのため、後者はまた、「強制」という意味に相当する。そしてチェッカーという直喩は人に「命令」という意味をもたらす。その意味というのは、小説全体を満たす、複雑な人間関係、筋、陰謀そして夢想に向かって広がる。こう見ていくと、物語が制止するのは不自然な努力だと捉えられる。その結果不安定なのである。

したがってジョーダンは、


 彼女はソファの自分の側に長々と身をたたえ、ぴくりとも動かなかった。顎はわずかに上方に向けられていたが、今にも落っこちてしまいそうなものが顎の先端に乗っていて、巧みにその均衡を取っているという印象を受けた。(9, 村上22)


 その家は、もはや居座っていることができないように感じられる。


 そよ風が一方の窓のカーテンを中に吹き入れ、もう一方のカーテンを外に吹き出しながら、部屋を抜けていた。カーテンはまるで白っぽい旗のように、砂糖をまぶしたウエディングケーキを思わせる天井めがけて、勢いよくめくれ下がっていた。それから風は、海を相手にするときの要領で、ワイン色の敷物にさざ波を立て、陰影を描いていた。

 その部屋の中で完全に固定された物体といえば、一つの大ぶりなカウチだけで、二人の若い女性が係留された気球に乗ったようなかっこうでそこにうかんでいた、どちらも白づくめで、そのドレスは千々に波打ち、はらはらと揺れていた。まるで家の周囲をちょっとの間飛行していたのだが、ついさっき風に吹かれるまで部屋に戻ってきたのだと言わんばかりに。僕がしばらくそこに突っ立って、カーテンが鞭打つように勢いよくはためく音や、壁にかかった絵がたてる軋みに耳を澄ませていたみたいだ。(8-9, 村上23)


 この一節では、ある準動詞の形跡がもう一つの形跡と交わる。そして言い回しとイメージの、この絶え間ない縦横の横断により、私がすでに、広がっていく視点、について述べたが、フィッツジェラルドはその効果を上げている。テクストの表面の綿密さの影響下に隠れたものであり、そして私がイタリック体にした言い回しの形で出てくるものであるここでのイメージは、一般的に予期されるかもしれないような、飛び回るものでは決してない。むしろ船や海のイメージである。すなわち「二重の注目」である。いわば、全ての家が、風の中うなる船としてみなされ、旗ははためいて、同時にカウチはある種の舟、すなわち船の中の舟、ワインカラーの海の絨毯の上にあるという、「二重の注目」だ。

印象の二つの側面の間をつなぐ連関は、言うまでもないが、人間の心理の活動と結果である。それがカーテンとドレスがともにざわめくことである。この種の水面下の小説の活力に関して様々なことが言えよう。その活力に私たちは何気ない非分析的なこの作品の読解において、無意識的に反応する。差し当たり、しかしながら、私は、どのように落ち着きのなさという考えが海という考えに連関するかということについてだけ注意を払う。この関連性にそろそろ戻ろう。

そうするとまず気づくのがどれほどこの「落ち着きのなさ」が広がっていき、この作品の始まり、とりわけ最初のブキャナン邸のディナーパーティーの場面を満たすかということかもしれない。

 夕食が静かに「全ては行き当たりばったり、冗談半分のやり取り」であるに十分に始まった。しかし矛盾からすぐに制御不能になる。というのも人々は絶えずそれぞれお互いをさえぎり続け[「家族の話をしてあげる」というデイジーのセリフを参照。]、話題を変えつつ、トムは熱情的になる[文明は崩壊しようとしている]。

デイジーは「激しい感情」に取りつかれていた。そして雰囲気はうわさ話、含み、風刺で満たされ、人々はいつも移り変わり、「けたたましく金属製の」電話はずっと欠けることはない。続く経過は全般的な雰囲気の適切な一例になるだろう。


 ミス・ベイカーと僕は、意味ありげにはならないように意識しながら、ちらりと視線を交わした。僕が何かを口にしかけたところで、彼女ははっと真顔になり椅子の上で身を起こし、警告するように「しいっ!」と言った。奥の部屋からは、押し殺され、激しい感情のこもった声が聞こえた。ミス・ベイカーはその内容を聞き取ろうと、恥ずかしげもなく身を乗り出していた。聞こえてくる声は、意味をなすかなさないか、そのあたりの微妙な境界をさまよっていた。(16, 村上)


 これはまさにデイジーへのニックの感情に関するムードだ。


 今夜の集まりそのものが、僕から彼女にとって都合のいい感情を引き出すために据えられた、ある種の巧妙な仕掛けだったのではあるまいかという気がしたほどだ。何も言わずに待っていると、彼女はほどなく、案の定というべきか、その美しい顔に非の打ちどころのない笑みを浮かべて僕を見た。まるで「なんといっても私とトムは並ではない特殊な社会に属しているのだから」とでもいうように。(19, 村上)


 大参事のあとのデイジーとトムがまるで共謀しているかのような瞬間[

下線部を見ていると、まるでデイジーは悲劇的結末を用意していたかのように思われてしまう。]をちょうどこの一節は予測しているかのようであり、全ての場面が私たちにミセス・ウィルソンとのトムの情事の描写を思い浮かばせ、その浅ましさ、平凡さ、陳腐さによって、デイジーに再会するためのギャツビーの陰謀のうぶな気高さとの準備するための対比である。[トムとマートルの間柄が陳腐で世俗的であるのに対して、ギャツビーとデイジーの間柄は、神聖なものである、という対比関係を生み出している]夕食のムードは、私が図式化して説明して見せたように、作品全体の感情とモラルの風潮の一部として、このように確立されている。しかしそれはもっと単なる場面設定以上のものである。

というのも彼らは自分たち自身の祖国に対して部外者であるだけでなく、過去の歴史に対しても部外者であるのだ。彼らが住んでいるのは大邸宅であるかもしれないが、しかし決してふるさとではない。だから彼らの「知的な」観念というのは見掛け倒しである。そして彼らの人生へのモラルの心構えは、よくても、古くとうわべだけの崩壊した社会の骨組みの残骸に過ぎない。だからこそ、ニックはトムの突然な「性的にふしだらな人から高潔ぶった人への転換」(138)に馬鹿にして笑いたくなった。その一方、彼が憧れを持って眺める一番素敵な人であるのは「図々しい懐疑主義者」(17)のジョーダン・ベイカーである。

 この根無し草の含みの全てから、もう一つの鍵となる語である、漂流する、という語句に放射状に広がる。そして私たちは注意してみるとよかろう。作品書き出しで、デイジーとトムについて書いたときの、落ち着きのなさに関連した思想をフィッツジェラルドがどのように関連づけたかについて。


 どうして彼らが東部に移ってきたのか、その経緯はよくわからない。彼らは特にこれという理由なくフランスに一年在住し、そのあともあちこちを落ち着きなくさまよっていた。ポロ競技が開催され、富裕階級が集まっているところなら、どこだっていいみたいだった[村上p18]。(6-7, 村上118)


 別々に取り扱われる際、この種の出来事の具体例のそれぞれは、特徴がなく、比喩的な豊かさが欠如しているように感じられるかもしれないが[これらの例はあいまいなので比喩的に読み取れないのではないかという人もいるだろう]、しかし、こうした二つの発想の作用はとても執拗なので、それぞれのごく小さな言い回しとイメージが増加し、力強い次第に増加する推進力を確立する[一つ一つの言葉を見ていくと、次第にその影響力の大きさに気付かずにはいられないだろう]。この作品の、描写的な文章の一文の影響下で、私たちはすでに海のイメージの作用を見てきた[ここまで見てきたのは、実は海のイメージである]が、それ(海のイメージ)は、見かけと中身が違う何気なさとともに、この作品全体の隅から隅まで広がる。ギャツビーのパーティーで「表情や声色や色彩の変貌」や「人々の混乱と渦の間はむしろひどく遠慮ない」ことにニックは気づく。またこうした会合においてトムは「あらゆる種類の狂ったやつ(fish)」に出くわしたと話し、のちに主張する。みんな「船外にあらゆるものを捨て去ろうとする」と。例示したものは掛け合わされ増えることだろうが、しかし私たちはただ海の比喩の再現にさえ注意すればいい。その比喩は二つの重大な流れの中を漂流し航海する。第一はニックの前文のコメントの終わりに向けてのものである。


 そう――ギャツビーは最後の最後に、彼が人としてまっすぐであったことを僕に示してくれた。果たされることなく終わった哀しみや、人の短命な至福に対して、僕が一時的にせよこうして心を閉ざすことになったのは、ギャツビーをいいように食い物にしていた連中のせいであり、彼の夢の航跡を汚すように浮かんでいた、醜い塵芥のせいなのだ。(2-3, 村上)


そしてこの本の結びには、


だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。(192, 村上)


とある。

 私は次のようなことを示したい。この作品の表面の真下にあるもの。それは詳細な語りの興味の真下にあるもの。フィッツジェラルドの社会分析の真下にあるもの。この作品の「神話的」とさえ言われている特質の真下にあるもの。そうしたものにとって影響を及ぼす決まり文句とは、私たち皆が反応を示す普遍的な人間の経験としての陳腐な言葉である。この小説の基礎の一つが陳腐な筋であるということは、フィッツジェラルドを軽蔑することにはつながらない。というのも偉大な芸術のほとんどはよく似た陳腐な筋の上に成り立っており、そしてまことしやかであるのは、なぜ、フィッツジェラルドの時代以上に、そして非アメリカ人にとってよりこの小説がもう一時代生きているかである。私たちが称賛すべきであるのは、彼が陳腐な筋を活気づけた方法にある。彼は陳腐な筋に、物語における人生についての新たな接近をもたらした。私が言及する陳腐な筋というのは、簡単に要約できる。それは有名な讃美歌の歌詞にあるそれである。


時は流れてやまない川のよう、

結んだ実も皆流れ去る。

人は飛び去り、忘れられる、夢のように、

産まれたと思うともう死ぬ(「聖歌」)


 人生のこの事実についての飾り気のない真実は、この小説の肌理のあらゆる箇所で潜在的であり、時にそれは絶対的以上のものである。ニックがあの夏にギャツビー邸に行ったということを記録した方法の妥当性はしばしば言及されてきている。


 僕は時刻表の余白の部分に、その夏にギャツビーの屋敷を訪れた人々の名前を列記したことがある。もう古くなってしまった時刻表で、真ん中のところがほどけ、冒頭には「この時刻表は1922年7月5日より有効」と記してある。(64, 村上115)


 そこにあるのは「蛾のように集まって、ささやきやシャンパンや星明かりの間を行きかった」、「男たちや娘たち」(41)の上品な記念物以上のものではありえない。

 ギャツビーの悲劇的な幻想、すなわち「現実というものの非現実性」(105)という彼の信念は本質的なものである。というのは、彼が人生の事実を否定し、ずっと流れ続ける小川を坂の上へ押し返そうとするべきである、「世界の礎が間違いなく妖精の翼の上にあるという約束」(105)のことであるから。


 「彼女にあまり多くを要求しないほうがいいんじゃないかな」と僕は思い切って言ってみた。「過去を再現することなんてできないんだから」「過去を再現できないって!」いったい何を言うんだと風に彼は叫んだ。「できないわけがないじゃないか!」(117, 村上202)


 ニックが時間の経過について非常に鋭く意識が高いことは重要でないわけではない、対照的にこの文脈でギャツビーが、「時計のことはすまなかった」と謝り(92)、それが無意識的な皮肉な意味合いの新たな水準を獲得しているけれども。

これは以前から十分しょっちゅう強調されてきたことだ。[この作品というのは、時間をテーマにした作品であるのだ]というのも、私が指摘できればいいなと思う点は、この作品の根本的なテーマであり、単に漠然と概略を示すだけでなく、単に物語や登場人物という専門用語へと解釈することだけでもなく、むしろまた言い回しやイメージにおける、まさに文章の肌理において表現され、例えば、それは「落ち着かなさ」や「漂流する」という言葉に集中する。したがってニックのモラルの姿勢はまさに以下のような用語で伝えられる。私たちは、ニックは変わらない経過であり、彼を前提とした批評家の、不動の見地に気付くかもしれない。彼は冷静な観察者ではなく、深く物語の中で巻き込まれる語り手であり、物語の進展に比例してにつれて彼は語っており、そして彼の姿勢は展開していき変化する。だからある意味、この作品にまさに起ころうとしているのは、ニックに対して何が起こるかである。最初に、彼は「ニューヨークが好きになり始めていた。夜になるとあたりに漂うびっしりとした冒険気分、男たちや女たちや車の絶え間ない行き来が、僕らの好奇の目に与えてくれる満足感。」(60)[村上p108]ギャツビーのパーティーの魅力と魔力は何も緊張を必要とせず、「実にいろんな色合いの、実にいろんな調子のどたばた」(110)[村上p191]にニックは圧迫と窮屈を感じ始める。そして彼の大参事の後の反応は、当然すでに格立された用語との対句において表現される。


 昨年の秋に東部からここに戻ってきたばかりの僕は、いっそのこと世界が軍服をまとい、いつまでも気を付けの姿勢を取っていればいいのにという心情にさえなっていた[村上p11]。(2, 村上11)


 同様に、ギャツビー自身のあいまいさがこうした言い回しで私たちに理解される。彼は単なるトムとデイジーの対立項ではない。というのも彼は彼らのある種の腐敗の示唆でもあるからだ。そして彼の夢は欠点の実質上の相互関係、それはつまりデイジー野心的な創造力の熱望への欠点だがそれだけによってではなく、けばけばしい伝説的幻想を築き上げるるために用いた手段によってもまた、実質がないことが証明される。彼はまた、自らの理想であるプラトン的観念を打ち砕く現実世界の落ち着かなさにおいても分配を受けた。


 こうした傾向は、そわそわするという形をとって、彼の一見隙のない物腰に、やむことなくほころびを作り出すことになった。とにかくじっとしていることができないのだ。常にこつこつと足で拍子を取ったり、所在なげに手を開いたり閉じたりした。(68-69, 村上120)

そして少し後に、彼はニックに語っている。


 「ごらんのとおり私はおおむねいつも、見知らぬ人々の間に身を置いている。ひとところに身を定めることなく、あちらこちらへと移ろって暮らしてきたからだよ。過去の切ない出来事を忘れようとしてね」。(71, 村上123)


 この漂流するということに注目するのはしばしばギャツビーとの結びつきにおいて関連付けられる。しかし、デイジーとトムの場合にには同様に、それは相変わらず無条件ではない。ギャツビーがまともだったとわかるのは最後の最後であった。彼について私たちが記憶しているのは、「せわしなさ」でも「漂流する」ことでもなく、「人目につく素振りの途切れない連続」である。ギャツビーは「寝ずの番の神聖さ」に恍惚としながら、ブキャナン邸の外で、月明かりに照らされて立っていた。ギャツビーはその間、自分の寺院と兼用の道端の家で「大きな戸口で、ポーチに立って手をあげ、格式ばった別れの挨拶を送っている主人の姿に一部の隙も無い孤独感を賦与していた」。すなわち、何はさておき、ギャツビーは手を緑の光、それは彼の未来の空虚な約束であったが、それに手を伸ばしていた。私たちは芝居じみていたり宗教的である何かとして、こうした体系化された姿勢を記憶している。しかしそれらは、一時停止した瞬間の、何か静的なものであり、それ自体は、ギャツビーの、彼の夢を現実性に押し付けようとする試みの様式上の同等物であり、つまりそれは彼のずっと流れ続ける連続を静かにしてしまう努力である。私たちはギャツビーを漂流者としてではなく、ある結末に向けて旅をする人として覚えており、それは次のようなことを意味する、作品を通してずっとほのめかされてきた、推進力をあの想像的な跳躍にもたらす、その跳躍とは私たちが引き起こす、ギャツビーとコロンブス、あるいは瞬間のオランダ人の乗組員との間の皮肉な対照によるものである。


束の間の恍惚の一時、人はこの大陸の存在を眼前にして思わず息を呑んだに違いない。審美的な瞑想(そんなものを本人たちは理解もしなければ、求めもしなかったはずだが)の中に引きずり込まれ、自らの能力の及ぶ限りの驚嘆をもって、その何かと正面から向き合ったのだ。(192 村上324)[ 村上p324]


 したがって、(私たちは)落ち着かなさという発想の元出発し、漂流という発想へ敷衍することを手段として進展する、私たちは最も大きな、この小説が提示する問題と向き合うことをもたらされる。これは、当然ながらただ――あるいは最も重要でさえあるのだが――全体の肌理の模様における、より糸であるだけではない。だれかのたくさんの他の出発点もとらえられてきたかもしれない、というのは東部と西部の間の対照、例えば現実性と非現実性の言い回しの微妙な演出である。あるいは比喩を感情的、モラル上の人生にとってメタファーの提供の範囲を拡大する機械的な機能的役割、すなわち評論家の数人が言及してきた、宗教的なニュアンス、つまり富や有用性という発想といった例である。これらのすべてが結合し作用してこの作品に深みや豊かさを満たすような示唆を与える。そしてもしその示唆がなかったら非常にしばしば議論に抽出されるテーマは、定義も反響する影響力も両方を欠くことになるだろうし、この小説はその本領を発揮することはできないだろう。その本質をマーク・スカラーは説明している。つまり、


肌理や調子自体において、テーマや意味を言葉にし、定義する、一つのある肌理と調子を生み出すのに使われる本質だということだ。つまり言語は、私たちの普通の話しぶりとは反対のものであり、意図的な巧みな取り扱いを通して、全てそうしたより多義的な私たちの日常会話が決して意図することのないものである。


参考資料


第一次資料


Harvey, W. J. ”Theme and Texture in The Great Gatsby” English Studies XXXVIII,February 1957,pp12-20

Fitzgerald, F. S The Great Gatsby . England:Penguin Essentials edition, 2011


第二次資料


フィッツジェラルド, フランシス、スコット 『グレート・ギャツビー』 村上春樹訳、中央公論新社、2006年

”Our God, Our Help in Ages Past” 引用URL: <http://www.cyberhymnal.org/htm/o/g/ogohiap.html> 最終更新日時:2017年1月25日

Y.S アメリカ文学をこよなく愛する人のホームページ

初めまして。愛媛大学法文学部でアメリカ文学を専攻し2017年度に卒業した者です。 卒業論文を書き終わった後に、とにかく楽しく社会人になってからも少しずつでいいので学問を学びたいと思い、このページを立ち上げました。学会にも入れたらいいかなと思っています。 アメリカ文学だけでなく、人文学一般について書き込みしていきます。

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