卒業論文 「The Great Gatsby論――西部で育まれた人間的烈しさ」(本文)
The Great Gatsby論
――西部で育まれた人間的烈しさ
山田 将大
Synopses
I will consider Gatsby’s greatness which we cannot find out without filter of Nick’s view. Nick is reliable narrator with some condition. He paints Gatsby his favorite color. But we cannot understand the image of Gatsby unless which is the image painted by him. So we have to start from the point that what is that condition.
First, I note Nick’s values and how he gradually changed. He was from Old Money in Middle West and is educated at New Heaven. So he gave to his acquaintances attention which they were the poor or rich, or intelligent. In addition, he experienced World War One and he tended to break his interior rules when he particular was with Jordan Baker. This story went ahead with setting her center of the narrative. He helped Gatsby see Daisy again because of Jordan’s request. But after his knowing Gatsby’s conception to Daisy, the holocaust had happened, and then because of limit of human sympathy to Tom he had come not to care what he required his acquaintances. That’s so why he could feel Gatsby’s intensity great. After his glance at their selfish, Nick concluded Buchanan’s couple was less than Gatsby’s greatness by far. At last, Gatsby had died but his intensity was given to Nick, and that let him choose to turn Jordan away and come back home. Thus he understood Gatsby’s dream and intensity in his conception, which grew him up a thirty man.
Second, I connect Gatsby’s story and exploring the West as American history. According to many points, he was Western person. I noted three points which are his party, his house, and his conception of green light. Continent of America is eaten by people from East, who is New Money. In 1890, frontier has disappeared. Natural science had developed and United States had become industrial Republic. Middle class accounts many percentage in the population. While Old Money got much richer, the poor got much poorer, and those of New Money decreased. West Egg belonged to East, but it was metaphor which was West. There were many people who were classed as New Money. They had a thorough eat Gatsby’s lawn. Gatsby’s party was like being exploited. And his house was metaphor his story. His goodness was regarded as hidden strategy, and he reached to decline. Gatsby was New Money, who climbed standards by measure of alcohol and uniform. But he was punished being worse for his guilty. Green light is metaphor of frontier and Daisy. Being close, ideal decreased by one. Earth has its limits, so he lost his place to go.
Third, we must ask the answer where his greatness is. Gatsby is never outdated man. His greatness is not only relative greatness but also absolute and universal. The connection between Tom and Daisy was cold still. We couldn’t find out the value in Daisy, and Tom and Daisy were a rotten crowd. Gatsby was worth damn them put together. He performed intensity like the responsibility as a man who loved Daisy. The conception is like Moerus whose is the character’s by Dazai Osamu’s work, or Watanabe whose by Murakami. It is like chivalrous spirit like Don Quijote. After he had judged so, he didn’t doubt and he believed in it. It is intensity which is just unutterable and couldn’t be measured. Its earnest came from Middle West, it was in common for Nick and Gatsby. Our snow, real snow reminded them identity grown up from Middle West. So Nick felt they should beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
In my opinion, the main theme in this work is absolute intensity in his conception to the beauty of Gatsby. After all, Gatsby is the worth told as ‘The Great Gatsby’.
目次
序論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
本論
第一章 語り手・ニックの物語
第一節 「正直な」語り手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
第二節 三十歳になるニック・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
第三節 ニックの美学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
第二章 ギャツビーと西部開拓――ギャツビーの物語
第一節 パーティーのウエスト・エッグ・・・・・・・・・・・・・・24
第二節 黒いギャツビー邸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
第三節 緑の消滅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
第三章 ギャツビーの偉大さ――交錯する二人の物語
第一節 希望を見いだす非凡な才能・・・・・・・・・・・・・・・・38
第二節 計り知れない烈しさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
第三節 本当の雪、僕たちの雪・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53
凡例・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56
注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57
参考書目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・76
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・78
序論
この作品は、ニック・キャラウェイ(Nick Carawway)というフィルターを通さないと、絶対にわからないジェイ・ギャツビー(Jay Gatsby)の偉大さを、ニック自身が語り直すことで、再確認する作品である。
この論文は題目通り、主人公ギャツビーの観念における人間的な烈しさ[1](Human Intensity in his conception)を主に扱う。作品の真実の主題とは、まさに、彼の人間的烈しさであると私は捉えている。それはまるで、「普遍的な、人間が憧れずにはいられない偉大さ」のようなものである。
ニックは、条件付きで信頼できる語り手である。対して一般的に言われる「信頼できない語り手[2]」という小説の技巧があり、それはこの作品においてもみられる。しかしこの小説の場合話は複雑で、主人公はあくまでギャツビーであり、主題は彼の偉大さとなる。この小説におけるニックの信頼できない語り手らしさは、特にギャツビーについてロマンチックに語る最中に、いつの間にか自分好みの色に、ニックがギャツビーを染めていることだ。しかしニック色に染まったギャツビーでなければ、私たちは共感できない。生身のギャツビーは、偉大でもなんでもない。ニックの語りが信頼できる条件、すなわち「ギリギリのライン」。そのギリギリを見極めることが重要となる。それを見定めることができたときに、ニックは条件付きで信頼できる語り手になる。
ニックの東部での生活の中心にあったのは、ジョーダン・ベイカー(Jordan Baker)である。彼にとっては、ニューヨークにやってきて三晩のイベントよりも、自分の生活の方が重要だった(59)。その中で急接近したジョーダン(62)に、ギャツビーとデイジー・ブキャナン(Daisy Buchanan)の仲介を頼まれ(84)、断れなかったから、彼は学友の妻との不倫を仲介する(91)ことになった。二人が応援したギャツビーが破れる中、起きた変化がある。元々ニックという人物は生まれや知性を備えていたものの、傍若無人なトム・ブキャナン(Tom Buchanan)を見ていて同情の余地が無くなり、成功の娘デイジーという象徴の幻滅を、彼は経験する(144)。ニックは、一時的に慰安を求め、ジョーダンに傾くが、最期までデイジーのことを見捨てないギャツビーの真意を知り、ジョーダンとの関係をばっさり切ってしまう(165)。ギャツビーの葬式を終え中西部の良さを思ったニックは、彼女との関係を清算することを決意し、訣別する(189)。ニックの物語としてこの作品を捉える際、ジョーダンの存在を考えることなしに、私たちは、彼の価値観や変化を適切にとらえることはできない。そこでニックの物語について、第一章では見ていく。
次に私が注目するのは、ギャツビーと西部開拓、つまりアメリカ合衆国建国の歴史との関係性である。開拓者たちは北アメリカ大陸を西へ西へと進んだ。フロンティアを農耕技術で耕していき、一八九〇年にはフロンティアがすっかりなくなってしまうまで進んだ。西部開拓とは成功者の物語である。それは社会階層の変化をも、もたらした。この作品においては、特に建国当初からの財産家の階層の人々が、固定化される傾向として描写されている。そのため、ギャツビーのように、非合法の手段を用いなければ、一九二〇年代に競争を勝ち抜いて成功者になるのは、難しいものがあった。ギャツビーは西部的な人物である。それも一九二〇年代にしては珍しい、一昔前の西部にいたような人物である。毎週開かれるパーティーと彼の豪邸、そして彼の緑の灯火が象徴するフロンティア・スピリットは、西部を象徴している。ギャツビーは歴史的な人物なのである。
第三章で見ていくのが、ギャツビーの希望を見いだす非凡な才能と、それが示す、彼の観念の烈しさである。それはある種の、ドン・キホーテ的な騎士道精神[3]だ。人が生きていく上での運命があるとしたら、それに対して支払わなくてはならない対価を、何の躊躇いもなく差し出せる勇気のようなものが、それにあたる。ギャツビーが内に秘めたとてつもなく大きな力のようなものに、私たちは感動し、偉大と言う。その偉大さは、中西部の文化に起因している。ニックと同じ故郷の、中西部特有の真面目さ、連帯感というものが、ギャツビーの根底にあるのである。何度も何度も、ニックはこの物語を反芻し、その結果として、中西部の雪というシンボルに考えが至るのである。
作者フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald, 1896-1940)の描き出したギャツビーの偉大さとは、歴史的かつ、一時代に終わらない普遍性であることを証明したい。
本論
第一章 語り手・ニックの物語
第一節 「正直な」語り手
ジョーダンの第一印象は、次のようであった。それは、「自給自足の(自分の)見せびらかし」(”exhibition of complete self-sufficiency”)(10)をする、自分の美貌を誇りに思っており、それを言われるまでもない自明の事実としてとらえ、はっきりと外に示す、高飛車な女性である。
ニックは、愛されて当然であるというジョーダンの価値観に、自然と気圧される。また彼女が、愛や友情のような物事をとことん疑ってかかる懐疑主義(”universal skepticism”)(84)を身につけていることに気づく。ジョーダンは世間知のあまりの高さから、擦れてしまった女性[4]なのである。
(1)“I hate careless people. That’s why I like you.”
Her gray, sun-strained eyes stared straight ahead, but she had deliberately shifted our relations, and for a moment I thought I loved her. (2) But I am slow-thinking and full of interior rules that act as brakes on my desires, and I knew that first I had to get myself definitely out of that tangle back home. I’d been writing letters once a week and signing them: “Love, Nick,” (3) and all I could think of was how, when that certain girl played tennis, a faint mustache of perspiration appeared on her upper lip. Nevertheless there was a vague understanding that had to be tactfully broken off before I was free.
(4) Every one suspects himself of at least one of the cardinal virtues, and this is mine: I am one of the few honest people that I have ever known. (Fitzgerald 62-63 italics mine)
((1)「不注意な人たちって大嫌い。だからあなたは好き」
彼女の灰色の、太陽に目を細めた瞳は、まっすぐ前方を見据えている。けれども彼女は、念入りに僕と彼女の関係を、一段シフトさせたのだ。そして少しの間僕は、自分が彼女を愛しているのかしらと考えた。(2)ただ僕は、頭の回転が鈍く、性的欲望のブレーキの役割を果たす内的規範でいっぱいなのである。そして、まずは当然故郷に残してきたもつれから抜け出さなくてはならない、ということが分かっていた。僕は週に一度は、その娘に手紙を書いてきていて、末尾には「ラブ、ニック」と記していた。(3)しかし僕が彼女について思い浮かぶのは、例のあの娘がテニスをしているとき、上唇にうっすらとした口髭のような汗が現れた、ということぐらいだった。しかしそれでもなお、自分が解放される前に、巧みに断交されなければならない漠然とした了解があったのである。
(4)人は誰しも自分自身に、四元徳のせめて一つはあると訝しむものだ。そしてこれは、僕が訝しむものである――僕が知ってきた限りで、自分は少数派の正直な人間の一人である。)
オーソン・ウェルズ(Orson Welles, 1915-1985)監督による『偉大なるアンバーソン家の人々』(The magnificent Ambersons [Motion picture])という映画がある。詳しい描写は1章に描かれているが、ニックはアンバーソン家のように裕福な家庭に育った。映画と同様、彼の故郷には両家のお付き合いをしている娘がいる。それはお互いがテニスをする仲であり、テニスができる身分であることからも読み取れる。
(1)ジョーダンは、「だからあなたは好き」というツンとしたセリフとともに、じっと遠くを見つめるという彼女の決めポーズによって、ニックを落とそうとしているのである。
おそらく二年後になって、ようやくニックは、当時のジョーダンの駆け引きがよくわかったのだろう。「けれども彼女は念入りに僕と彼女の関係を一段シフトさせた」ことの意図を、当時のニックは気づいていない。彼は、恋の深みに確実にはまっていたのである。なぜなら、一般論として自分が愛しているのだろうかと思った時には、大抵その人を好きになっているものだからだ。自動車に乗っているからこその、「ギアを変えるけれども、歩み寄るのはあなた。責任は私にはないの」。という含みが、ジョーダンの狡猾さであり、ニックの二年後で振り返っている時の捉え方の皮肉である。
(2)ニック自身の中に「欲望に歯止めをかけてくれるいくつかの規則」というものがある、と彼は言っている。しかしそれは本当に、言葉通りの役割を果たすものなのだろうか。初期の段階からアメリカに移住してきたイギリス系の人々には、ピューリタンの人々が多かった。「姦淫してはならない」という教えは旧約聖書のものだが、ピューリタンである以上必ず守るべきだ。ニックは結婚もしていないので、性行為をしてはいけない、ということにはならないけれども、しかしニックが女性関係において、非常にいい加減な人物であるという、そのことは確かなのではないか。
というのも3章において、仕事の関係で行ったニューヨークの”Jersey City”で女性と、ニックは肉体関係を結んでいる。そしてその上彼は、彼女の兄に見咎められたために逃げてきた、とも記している(60)。更にニックには、先に言及した文通をしている、「ラブ・ニック」と書くような関係の娘もいて、さらにジョーダンをも好きになりかけている。言ってしまえば、ニックは女性に三又をかけているということになる。
しかし、中西部の娘とはあまり関係がいいとは言えないことを、私は指摘する。そう言えるのは、ニックがニューヨークに行っても、止めようとしたり追いかけたりする姿勢がないことからである。ただし彼らは、両家の都合もあるので、仕事で忙しいにも関わらず、週に一回というペースで「愛を込めて」などというメッセージを送っているのだ。このように言葉通りそれを私たちは、欲望を規制してくれる規則と呼べるのか、という疑問が残るだろう。
(3)手紙のやり取りは、”tactfully broken off”と続く「(暗黙の)了解」(”understanding”)である。先ほどの解釈から行くと、できることなら穏便に済ませたいという気持ちは、両者にあったのである。しかし、もしも関係を切るのであれば、お互い巧みにやろうという解釈ができる。「上唇にうっすらとした口髭のような汗が浮かぶ」とは、性的なものの比喩である、と考えられる。”sweat”ではなく”perspiration”という格式ばった言い回しを使い、”appear”という汗が視覚的に現れるというニュアンスの語が使われている。一般的に性のイメージを喚起させるなら、格式ばった表現は使わない。ここからニックにとって、文通相手は女として見ていないただの人である、ということが読み取れる。
だが内容はともかく、ニックはジョーダンを目の前にしながら、性的なものの比喩をしている、つまり性的なことを考えている。そのためこの描写では文面以上に、ニックの頭の中は妄想でいっぱいである、ということが読み取れる。
(4)ニックは、高学歴ゆえの四元徳という知識を持ち出し、それに対して自分が当てはまるものは、正直さだと独白をする。ニックは、自らの正直さを鼻にかけている。それは、彼が”dishonest”であると見ているジョーダンに対する、自分自身にとっての”advantage”[5]である。
以上から二点挙げることができる。語り手として以上述べてきた自己矛盾を読者に大胆に暴露するほど、自分は正直な語り手であることを、皮肉を交えてニックは伝えようとしている。つまり、自らの語りの正当性を担保するために、ニックは自らの恋愛体験を、わざわざ読者に「見せびらかして」いる、ということである。
また、ニックの四元徳の知識や、彼が皮肉に表現する言い回しから考えると、彼は非常に知性的である。言うまでもなく、家柄も少なくとも中流より上の階層出身である。そのことから、ニックが自分の生まれを鼻にかけていること、そして自分の知性的な部分をひけらかしている[6]ことは明らかである。
以上の点を包み隠さず、ニックは公開する。それは、ギャツビーの”greatness”の信憑性を追求するためだ。この点において、「信頼できる」条件が整うのである。
なんにでも疑ってかかるジョーダンは、一章で彼女がブキャナン夫妻の不仲を知りたがったように、面白くなりそうな場面では、自分から動いて事態をかき回そう、と考える。その一方で愛や友情に対して懐疑的な彼女は、自分自身の安全についても、冷めた目で冷静に、生き残っていくための手段を練っている。
3章でジョーダンは、自分の年老いた祖母のことに触れて、ニックをデートに誘う(56)。1章ではデイジーが、彼女に祖母しか家族がいないことを話している(20)。また7章において、ジョーダン自ら父親が亡くなったことも、さりげなく言っている(135)。そのため彼女は、中産階層あるいはそれ以下の地位にある。ジョーダンは、生きるためにゴルフ選手となった。そして彼女は、上位の社会階層出身のニックを釣り上げ、安全弁としておきたいのだ。
ニックとジョーダンは、”honest”であるかどうかについて真逆の人物だが、読者にとってみれば、価値観が非常にオープンな人物である、という点で共通している。
第二節 三十歳になるニック
ギャツビーのデイジーへの思いは、プラザホテルでの口論の末潰える。無残にも去っていくギャツビーに対し、トムは楽しそうに声を上げる。ニューヨークの街並みを抜け、クイーンズ・ボロ橋を戻りロングアイランドに向かう最中で、ニックの心の中、様々な変化が起きるのを、読み取ることができる。
(1) It was seven o’clock when we got into the coupe with him and started for Long Island. Tom talked incessantly, exulting and laughing, but his voice was as remote from Jordan and me as the foreign clamor on the sidewalk or the tumult of the elevated overhead. (2) Human sympathy has its limits, and we were content to let all their tragic arguments fade with the city lights behind. Thirty — the promise of a decade of loneliness, a thinning list of single men to know, a thinning brief-case of enthusiasm, thinning hair. (3) But there was Jordan beside me, who, unlike Daisy, was too wise ever to carry well-forgotten dreams from age to age. As we passed over the dark bridge her wan face fell lazily against my coat’s shoulder and the formidable stroke of thirty died away with the reassuring pressure of her hand.(Fitzgerald 149 italics mine)
((1)僕たちがトムとクーペに乗り込み、ロングアイランドへ出発したのは、七時ちょうどだった。トムは絶え間なく、狂喜し声を立てて大笑いしながら、話しかけてきた。しかし彼の声は、歩道の異質な絶え間ない騒音や、頭上の高架鉄道の喧噪と同じくらい、ジョーダンと僕からは遠く離れたものであった。(2)人間のもっている同情にも限度があり、僕たちは彼らの痛ましい論争が、背後の街の電灯とともに薄らぐに任せておくのに甘んじた。三十歳――孤独の十年間が予想される。独身の知人の一覧表は薄くなり、情熱を込めた業務用鞄は薄くなり、髪の毛も薄くなる。(3)しかし僕の隣にいたのはジョーダンであり、デイジーなんかと違い、あまりに聡明なので、時代から時代へと、失われて久しい夢を運ぶことは決してない女だった。僕たちが暗い架け橋を渡る時、彼女の青白い顔は、けだるく僕のコートの肩に寄りかかるようにして向けられ、三十歳という手に負えないほどの打撃は、彼女が頼もしく手を強く重ねてきたので、次第に消えていった。)
(1)ここでの”we”は、傍若無人なトムを含まず、ニックとジョーダンだけを指している。クーペは、フランス由来の二人乗りの車で、実用性がない贅沢の象徴と言われている。第二章第一節で引用する箇所だが、オムニバス代わりになるような、ギャツビーの「真面目な」ロールス・ロイスが事故を起こす、というのが悲劇的なのである。ここから、マイヤー・ウルフシェイム(Meyer Wolfshiem)いわく「女に関してとても注意深い」ギャツビー(76)が、すなわちここでは運転に関して注意深いギャツビーが、不注意なブキャナン夫妻に罪を擦り付けられた、という含みが出てくるのである。
ニックは、6章までトムを認めて、握手までしていた(110)。トムとニックは、同じイェール大学を卒業し、財力の差こそあれ、お互い名家の家柄出身である。しかし生まれや知性を備えていても、ニックにとってはトムを、人間として共感できなかった(“human sympathy has a limit”)。彼の持つ知性や生まれは、彼自身を幸せにするものなのか、いやそうではないだろう、とニックは思う。彼を見ていると、知性や出身階層とは、人間を評価する上で、本当に役に立つ基準なのかどうか、彼には疑問に思われるようになるのだ。トムの言葉は、運転している中で、周りの騒音と同然になってしまう。
(2)野間氏は、ニックが第一次世界大戦後にPTSDに陥っていた可能性について言及している(野間 132-137)。この作品には彼が除隊してから1922年春まで、ニックが中西部で何をしていたかについて、記述がない。
アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway 1899-1961)の『われらの時代に』(In Our Time 1922)という短編集に収録されている、「兵士の故郷(“Solder’s home”)」という短編がある。ニックは1章において、「中西部もいまは、溌溂たる世界の中心ではなく、蕭条たる宇宙の果てという気がした」(3)と語っている。これは、決して中西部に飽き飽きした、というだけのことを表現しているのではなく、戦争体験から、かつて頼みにしていた大切な価値観を見失ってしまった、ということを示している。「兵士の故郷」の作中の主人公クレブズの母親のセリフを、私は引用する。
「あなたは覇気を失ったんじゃないか、人生の確たる目的を失ったんじゃない、とお父様は思っています。あなたと同年輩のチャーリー・シモンズは立派な仕事についていて、まもなく結婚するんですって。[中略]私たちはね、あなたに人生を楽しんでもらいたいの。でもそのためには腰を据えて働かなくっちゃね」(ヘミングウェイ 107)。
このクレブズの描写を見ていると、当時のニックの様子が想像できる。この描写から考えられるニックの価値観とは、彼にとって「腰を据えて働く」基準が三十歳であったということだ。ニックは、いろんなものが細っていくという説明をしているが、これらに共通しているのは、ニックの仕事についての思いが薄れていくことである。しかしその思いは、彼が見たギャツビーの姿から影響を受けて、人としての義務から真面目に生きることに目覚めるのである。
(3)ニックが向かう対象は、ジョーダンである。一九二〇年代の社会風俗を描いた書物である『オンリー・イエスタデイ』には、
…実際に、戦後の女性は男性に向かってこう言った。「あなたは疲れているし、幻滅しているのよ。家族の世話をしたり、分別のある友達を持つことが望みじゃないでしょう。欲しいのは刺戟のある遊びと、結婚だの子供だのというわずらわしさのないセックスのスリルなのよ。私が望みをかなえてあげるわ」(アレン 107)
とある。ジョーダンは、退屈な中西部に幻滅していることも、トムのようなくだらない友人と付き合うことが煩わしい、という心情をも、よくわかっている。
そしてニックは、デイジーに対して次のように思い、軽蔑するようになる。彼女は、もう結婚してしまい子供まで儲けているのに、なおもティーンエイジャーの頃の思い人のことを忘れられない。しかもその思いを貫き通すなら未だしも、彼女は土壇場になってその男を捨てるということをする。”unlike”とあることからも以上述べたような、「デイジーなんか」という彼女に対する不信が読み取れ、またそれは「失われて久しい夢」(”well-forgotten dream”)という表現からもわかるように、幻滅の意味合い、彼女を強く軽蔑する様子がうかがえる。その結果、彼はジョーダンに慰安を求めて傾くのだ。
この引用からは、ニックの価値観が、大きく揺らぐ様が見て取れる。彼の心境は、ギャツビーの真実を知る時に、大きく変化するのだが、実はこの場面[7]ですでに、ブキャナン家への苛立ちや、戦争体験を含む三十歳になる自覚など、変わりつつあったことが分かる。
第三節 ニックの美学
ニックは、第二節で扱った引用から変化の兆しが見え始め、言葉にならないギャツビーの烈しさに触れた。そして彼は、中西部への思いが、沸々と湧き、かつて見失っていた中西部の良さを改めて思うのだった。そうして彼は故郷に帰ることを決意する。
(1) I saw Jordan Baker and talked over and around what had happened to us together, and what had happened afterward to me, and she lay perfectly still, listening, in a big chair. . . .
When I had finished she told me without comment that she was engaged to another man. I doubted that, though there were several she could have married at a nod of her head, but I pretended to be surprised. . . .
(2) “You said a bad driver was only safe until she met another bad driver? Well, I met another bad driver, didn’t I? I mean it was careless of me to make such a wrong guess. I thought you were rather an honest, straightforward person. I thought it was your secret pride.”
(3)“I’m thirty,” I said. “I’m five years too old to lie to myself and call it honor.”
She didn’t answer. Angry, and half in love with her, and tremendously sorry, I turned away. (Fitzgerald 188-189 italics mine)
((1)僕は、ジョーダン・ベイカーに会って、僕たちの身に一斉に起こってしまったこと、また後に僕個人の身に降りかかったことについて、よく話し合って、自分の意見に従わせた。彼女は、大きな椅子に身を横たえ、完全な不動の姿勢で聞いていた。[中略]
僕が話し終えるやいなや、何も付け加えることなく、「私ほかの男と婚約した」と彼女は言った。彼女が、首を縦に振ることですぐにでも結婚出来よう男たちがいくらか存在するとしても、それは疑わしいと思ったが、僕は驚いたふりをした。[中略]
(2)「あんた、不注意な運転をする人が安全なのは、もう一人の下手な運転手と出会うまでと言った。そうね、あたしはもう一人の下手な運転手と出くわしたのかな。つまり私が、不注意だったからこんな誤った推量をしたんだ。あんたは幾分正直で、まっすぐな人と考えてた。そしてそれはあなたの密かな誇りだと考えてた」
(3)「僕は三十歳だ」と僕は言った。「五年も歳を取りすぎてしまっているのに、自分に嘘をつき、それを名誉だなんて言うものか」
彼女は答えなかった。怒りを感じ、彼女に半ば惹かれ、そしてとてつもなく心を痛めたが、僕は背を向けた。)
(1)ギャツビーの思いはニックの心を動かした。彼は、自分が中西部を出てきた時のように、中途半端に個人の問題を放っておいて、故郷には帰れない、と考えることになったことだろう。
ジョーダンとしては、ニックが話すのを聞いているフリをしていたにすぎないと考えられる。おそらく彼女は、話し終えた後の婚約の話をどう切り出すかを練っていた。彼女が「婚約した」と言い返すのは、自分が実際にダメージを受けているのであるにもかかわらず、ニックがわざわざ誠意を見せても、「それは無駄でした」という強がり、反抗を示すためである。ジョーダンは高飛車な女性で、勝ち終わりでないと気が済まないのである。
ニックは、仮定法過去完了で、ジョーダンが仮にも首を縦に振れば結婚できる立場だったとしても、それは疑わしいと言っている。確かにジョーダンは、婚約に持ち込めるのだ。しかしそれは、負け惜しみであるとニックは見ている。けれども彼は、ジョーダンが別れることに承諾してくれたことに反論されるとややこしいため、もう何も言わなかった。
(2)過去形で「あなたは正直な人だと思った(のに違った)」というセリフは、皮肉を込めてニックの正直さの自負を認める発言なのである。つまりそれは、ニックへの「下手な運転手ではないでしょうにね」、という嫌味の籠った、自分を振った男に対しての仕打ちである。その意図するところは、「下手な運転手と出会って残念だったわ」、ということだ。それは、「別れる原因はあくまでもあなたであって私じゃないから」、という、つっけんどんな主張である。
それに対してニックは、「こんなお坊ちゃまにやられたままでいるわけにはいかない」というジョーダンの気持ちを、彼は察するのである。ジョーダンは、お坊ちゃまニックがボロを出す、という青写真を描いていたが、ニックはそれに乗らなかった。
(3)第一節でニックは、自分の正直なところに呆れ返ってしまう点に言及した。これはジョーダンと話した二年後に感じていることである。つまり、当時は自分自身の正直さを美徳として捉えていたし、ジョーダンが言うように鼻にかけていた。
しかし、ニックに我慢ならなかったのは、この時ジョーダンに皮肉っぽく「正直ね」と言われることだった。嘘で塗り固められたようなギャツビーの人生の中で、唯一光る真実のようなもの、すなわち烈しさを知ってしまったニックにとっては、その時のジョーダンの言葉からは自分が正直さだと思っていたものが「軽薄さ」だと感じられたのである。烈しさ、すなわち行動を伴わない、これまでの自分の「不正直さ」を言い当てられて悔しかったのである。
救い難く不正直な女であるジョーダンにそんなことを言われたら、言い返せずにはいられない。「もう僕も正直とは言えなくなってしまったね(だから君の言うことは正しいね)」という含みのあるセリフを返すことで、ニックは、皮肉を込めて優位性を保ったまま返事を返すという、非常に高度なことをやってのけた[8]のである。
しかしニックは、自分の正直さを否定しておきながら、その返答により沸いてきた三十歳になった実感から、その答えをしたことをやや後悔し、そんなことを言わせたジョーダンに腹が立っている。だが、ジョーダンの中にあった洗練された要素は、中西部の良さが分かってからも恋しかった。東部への憧れを捨てきれないところは、ニックにあったのである。ニックは、ジョーダンが何も言えないのを見てこう思う。自分は、高飛車でプライドの高い彼女に、悪いことをしたかもしれないと。それでも彼は、背を向け中西部に帰っていく。
ニック自身迷った末、別れを告げるために再会すると、ジョーダンは、高飛車ぶりを見せて、何が何でも勝ち終わりを目指していた。舐められていると感じたニックは、三〇歳になったという誇りを込めた一言で、ジョーダンが何も言えないような状況に持ち込み、背を向ける。彼が感じていたのは、東部へのかすかな憧れと、それを象徴しているジョーダンの痛々しさであった。
二章 ギャツビーと西部開拓――ギャツビーの物語
第一節 パーティーのウエスト・エッグ
この作品について考える上で欠かせないのが、ギャツビーのパーティーである。ギャツビーの日本社会におけるイメージは、映画の邦題で『華麗なるギャツビー』とされるほど、パーティーを無償で開く大富豪とされている、と思われる。しかしこのパーティーの描写を見ていくと、一九二〇年代のアメリカ文化に加えて、「ウエスト」・エッグという土地からわかる、西部性が読み取れる。それは、当時から五〇年前のアメリカ西部の様子のメタファーである。
(1) There was music from my neighbor’s house through the summer nights. In his blue gardens men and girls came and went like moths among the whispering and the champagne and the stars. (2) At high tide in the afternoon I watched his guests diving from the tower of his raft, or taking the sun on the hot sand of his beach while his two motor-boats slit the waters of the Sound, drawing aquaplanes over cataracts of foam. (3) On week-ends his Rolls-Royce became an omnibus, bearing parties to and from the city between nine in the morning and long past midnight, while his station wagon scampered like a brisk yellow bug to meet all trains. (4) And on Mondays eight servants, including an extra gardener, toiled all day with mops and scrubbing-brushes and hammers and garden-shears, repairing the ravages of the night before. (Fitzgerald 41 italics mine)
((1)夏の夜通し、隣人の邸宅からは、音楽が聞こえていた。青い園に男女が、ささやきとシャンパーニュと星明りの中を、蛾のように行き来した。午後の満潮時に僕は、ゲストがウキ台の尖塔から飛び込む様や、熱い砂浜で日光を浴びる様を見た。その一方、二台のモーターボートが、「海峡」の水面に切り込みを入れ、波乗り板で泡沫の豪雨を描いた。(2)週末になると、隣人のロールス・ロイスはバスとなり、朝の九時から真夜中をずいぶん過ぎた頃まで、一行を街まで送迎をする。隣人のステーション・ワゴンは、まるで活発な黄色い甲虫のように、ふざけ回って全列車に連絡する。(3)そして毎週月曜日、臨時の庭師を含めた八人の奉仕者が、モップとデッキブラシと金槌と植木鋏を持って、一日中一生懸命働き、惨害の前夜を修復しておくのだ。)
(1)庭の青々しさは、深く茂った芝や植木の上品さを示すとともに、この引用個所で比喩的に用いられる昆虫達が、心地よく動き回れる環境であることを象徴している。蛾に喩えられているのは、このパーティーの主役となる男女である。蛾は、鱗粉をまき散らしながら飛び回る昆虫である。ギャツビーの庭は、その蛾が飛び回ることによって、鱗粉であふれることになる。その粉が、噂やこぼれるシャンパーニュの様子や輝く星々のような様を見せるのである。
蛾は、夜間に行動しよく発達した口吻で花みつ・樹液・果汁などを吸収する。蛾は、ギャツビー邸の明かりに誘われて、もてなしてくれる様々な金目のものに、無意識的に惹きつけられるのである。
西部という楽園で人々は、昆虫のようにその豊かさを享受する。比喩的にとらえると、そのように見ることも可能かもしれない。
一九二〇年代の社会風俗を取り扱った『オンリー・イエスタデイ』には、
兵隊が訓練キャンプや前線に出発するときに陥るあの「食いかつ飲んで楽しくやろうぜ、どうせ明日は死ぬんだ」という気分に、この時代のすべての人々が感染していた。(アレン 92)
という記述がある。見た目だけでも、そのような時代背景の中、生きる為の防衛反応として、楽しそうにしていたのであろう。ゲストも機械もこのように、一九二〇年代という時代を象徴するような有様である。人々は、戦争が終わったことに浮かれ騒ぎ、刹那的に楽しみどんちゃん騒ぎをする。機械文明は、第一次世界大戦が終わって、日常的に親しまれるものへと姿を変えた。そしてそれは、急速に日常に溶け込んでいった。溶け込んだ機械文明は、この引用にあるように、楽しそうにその役割を果たしている。人も機械も、その点では同じである。科学技術は、二十世紀に入って大きく進歩した。そして金持ちにとっては、最新の科学技術は手の届くものとなったのである。
(2)イギリス製のロールス・ロイスは、ギャツビーの象徴的車として一貫して描写されており、悲劇を引き起こす車として、何気なく登場させられている。この黄色い車は、黄色くなくてはならなかった。それはなぜなら、ギャツビーの成金のイメージを引き立たせ、ギャツビーが思うデイジーという、黄金娘をイメージさせるものでなくてはならなかったからだ。そしてロールス・ロイスの存在が、ドイツ系アメリカ人であるギャツビーが、英国の大学オックスフォード出身である、という皮肉な事実を、より引き立たせているのである。
このパッセージでは混じるように、イギリス英語(aquaplane, Rolls-Royce, omnibus)とアメリカ英語(diving, slit, become)が出現する。後の描写でイギリス人に対して、アメリカ人が様々な商談を持ちかけている。この場は、イギリス系の財産家の人々に対して、アメリカで成功した成金の人々が絡む、という場面でもある。大衆消費社会をいち早く実現したのは、他でもないアメリカ合衆国である。商談を持ちかける人々は、成金的思考をもってその豊かさを、伝道しようとしている。
(3) 大衆消費社会の闇の部分を、この描写は記している。現代では疎んじられる大量生産、大量消費、大量廃棄というどんちゃん騒ぎを、この時代は許容していた。しかし人々は、無償のパーティーに参加し、その是非を考えることなくある分だけ取っていく。彼らは、”anything goes”という仕方で、ギャツビーの資源を貪り食った。アメリカ合衆国のエネルギーは、無限であるかのように思われている。事実、列車からはステーション・ワゴンを通して運ばれてくる、数限りない荷物がある。それらの荷物は、代替可能なものとして利用される。
彼は、それを生かしてダメージを取り繕い、元通りにしようとしている。ギャツビーは、6章において「過去は繰り返せる」と信じて聞かない。金さえ手に入れることができればなんでも元に戻せる、とギャツビーは思っているのだ。私たちは、その価値観をこの一文から読み取ることができる。
近代の大衆的なパーティーが、このパッセージでは、原始的なフロンティアに喩えられている。ニックは、6章になってギャツビーの土地の、ウエスト・エッグ性に気付く。彼は、デイジーがパーティーで感じていることを、ニック色に染めなおした仕方で思いを馳せるのである。それは、単純な強い活力で溢れている様である(114)。しかしその様子は、ギャツビーの見せる烈しさとは異なるものである。それは、ウエスト・エッグの住人の、無責任で無節操な、品のないおこがましさである。その描写は、第二節の小作農を拒む人々の描写にも現れている。
二節 黒いギャツビー邸
ギャツビーは、三年の歳月をかけて大邸宅を購入した(96)。その彼の邸宅は、ギャツビーにとっての最大の財産だ。しかし実はその邸宅について、ニックが知っているくらい、黒い噂が流れていた。その寓話についてみていくと、成り上がりの末路と、ギャツビーを待つ不吉な運命を、私たちは見出すことができる。この邸宅を買うために、ギャツビーは驚くべき烈しさを見せるのである。「類は友を呼ぶ」という言葉があるが、黒いビジネスを営む者達が近くに固まる、という現象が起きている。
(1) I walked out the back way — just as Gatsby had when he had made his nervous circuit of the house half an hour before — and ran for a huge black knotted tree, whose massed leaves made a fabric against the rain. . . (2) A brewer had built it early in the “period” craze, a decade before, and there was a story that he’d agreed to pay five years’ taxes on all the neighboring cottages if the owners would have their roofs thatched with straw. (3) Perhaps their refusal took the heart out of his plan to Found a Family — he went into an immediate decline. His children sold his house with the black wreath still on the door. Americans, while occasionally willing to be serfs, have always been obstinate about being peasantry. (Fitzgerald 93-94 italics mine)
((1)ちょうどギャツビーが、三十分前に邸宅を、神経質にぐるぐる回っていた時と同じように、僕は裏道を出歩いていたが、巨大な黒い節だらけの樹木のところまで、足を速めて向かった。その木は降雨に対して、一集まりの樹葉が生地を成している。再び雨は降り返していた。…(2)ある醸造業者が、十年前の、時代物「一時的大流行」の初期に、それ[ギャツビーの邸宅]を建てた。そしてもし持ち主が、藁葺の屋根にしてもらえていたのならば、彼は隣家の小屋全ての、五年分の税金を支払うことに同意しただろうに、という物語があった。(3)ひょっとしたら、彼ら[持ち主]の拒絶は、一家を興すという、彼の計画の精神をめちゃくちゃにしたのかもしれない。そして彼は、急速に衰弱していった。彼の息子達は、まだ戸口にある黒い花輪を付けた邸宅を、売却してしまった。アメリカ人は、場合によっては農奴になることを厭わないのに、小作人扱いにはいつもわからず屋だ。)
(1)ニックの心の裏も、ニックが裏口から出たというところから、見えてくる。”circuit”という語は、ギャツビーが同じところを行ったり来たりするのと同様に、頭の中で考えていることや、脳波も円環上に早くぐるぐると回り続ける様子がイメージできる描写である。ニックは、この物語を何度も何度も反芻し繰り返し語るが、ここでの”circuit”とは、そのような作品全体に関わるイメージである。
黒とは、軍服の黒、そしてギャングの黒の象徴する色である。その黒い節だらけの巨木は、ギャツビーが積み上げた罪の数を示していると考えられる。それは、世間的に忌避されるが、ある意味では偉大なものである。
(2)この醸造業者は、おそらく材料の仕入れ先として、恐らく西部の西海岸を選び、そこの麦芽を仕入れたのであろう。西部開拓によって切り開かれた道を通って、麦が運ばれ、ビールが製造される。戦争開始初期、アメリカからのヨーロッパに対する貿易輸出は盛んで、ビールは大いに売れ、業者は成り上がることになった。
一九一二年フランスに、「ジャンヌレ・ペレ邸」”Villa Jeanneret-Perret”を、祖国の建築士ル・コルビュジェ[9](Le Corbusier 1887-1965)が建てた。これは、新古典主義の建築であり、その模様は1章に詳しく描写されている(5-6)。
この邸宅が、世界的にブームになったことを、十年前の熱気は指していると思われる。このビール業者は、ある野望を抱いていた。それは、「借景」である。大ブームとなった旧時代の様式を、周りを巻き込んでまで、実現しようとしたのである。これこそが、理想の邸宅の基となるものだった。
(3)しかし、ウエスト・エッグの住民はそれを拒んだ。それは、アメリカ人としての自分たちを馬鹿にするな、という気持ちがこもっていたためである。アメリカ人は、かつて西漸運動、あるいは西部開拓という歴史があったために、開拓して土地を興すことに関しては厭わない。彼らは封建時代の農夫、つまり歴史を作り出した人々であることには、我慢できる。しかし昔の、発展途上国の小作農民(peasantry)であることに、彼らは我慢ならない。彼らは、時勢遅れである、ということに反感を覚える。それは湧いてくる愛国心によるものだ。世界に影響力を与えるアメリカ人であることに、彼らは誇りを持っているのだ。
借景によって、一家の繁栄を築こうとした計画は、見事に破綻した。邸宅は、近隣住民の信頼を失い、信用ならない人間の住処だと思われた。それもあってビール業者は、大切な心の支えが折れてしまい、失意の中、ぽっくりと逝ってしまった。一家は没落し、彼を弔う期間をも過ぎない間に、息子たちは移り去ってしまうという悲劇が起きる。こうした逸話は後に、ギャツビー自身の破滅にもつながっていく。
私たちは、ギャツビー邸の描写から、デイジーとの再会の前後であり、感動的なシーンであるにも関わらず、裏では彼の破滅を暗示している、という不吉さをも読み込むこともできる。
そもそも彼が辿った道のりというのは、人の倫を外れたものであった。そのしっぺ返しが、後になってくるのである。彼が出世に用いた手段とは、アルコールと軍服であったが、結局彼はそれらに足元を掬われているのである。
ビール業者とギャツビーには、類似点がある。それは審美的な理想のため周囲の迷惑、もっと言えば被害を顧みないところである。彼らは、正当とは言えない、汚い手段で成り上がっている、言うなれば犯罪者である。同時代の事業等によって、名を立て成功者となった、ジョン・モーガン(John Piermont Morgan, 1837-1913)やジョン・ロックフェラー(John Davison Rock feller, 1839-1937)、デール・カーネギー(Dale Breckenridge Carnegie, 1888-1955)[10]のような人物には、全く及びもつかない。
そして相違点は、ギャツビーが人から反対されたくらいでは、全く意にも介さないというところである。彼の観念は、そのくらい強固なものであり、理想のために良心を痛めてでも、どこまでも行動を続けるというものである。
第三節 緑の消滅
ギャツビーは、長年の夢を叶え、念願のデイジーと再会する。ニックが、そのギャツビーの心理を、主観を交えながら描写している。それによると、様々なことが、ギャツビーの心の中では起きていた。決して、ただ言葉を交わし合い、身を寄せ合うだけではなかった。このギャツビーの心情は、ニックが何度も何度も物語を反芻した結果描写されたものだ。
(1) He had passed visibly through two states and was entering upon a third. After his embarrassment and his unreasoning joy he was consumed with wonder at her presence. He had been full of the idea so long, dreamed it right through to the end, waited with his teeth set, so to speak, at an inconceivable pitch of intensity. Now, in the reaction, he was running down like an overwound clock. . . .
(2) “If it wasn’t for the mist we could see your home across the bay,” said Gatsby. “You always have a green light that burns all night at the end of your dock.”
Daisy put her arm through his abruptly, but he seemed absorbed in what he had just said. Possibly it had occurred to him that the colossal significance of that light had now vanished forever. (3) Compared to the great distance that had separated him from Daisy it had seemed very near to her, almost touching her. It had seemed as close as a star to the moon. Now it was again a green light on a dock. His count of enchanted objects had diminished by one. (Fitzgerald 97-99 italics mine)
((1)はっきりしているのは、彼が二つの状態を過ぎ去ってしまい、第三の状態に差し掛かっているところであることだ。ばつの悪さと分別のない大歓喜の後に、彼女の存在することの不可思議さに、彼は取り憑かれていた。長きに渡って彼の頭は、その観念で満ち満ちて、まさに始終目的に向かって夢想し、歯を軋らせていた。言うなれば、想像もつかない程の烈しさを以て、彼は待っていたのだ。今その結果として、ねじを巻き過ぎた時計のように、動作しなくなってしまっている。[中略]
(2)「もし薄い霧がなければ、湾を超えた先の、あなたのお家が見えたのですが」、ギャツビーが言った。「波止場の端に毎晩燃えるような、緑の灯火がいつもありますよね」
唐突に彼の上腕を、デイジーの腕が絡めたが、どうやら彼は、自分が言ったばかりのことに夢中だった。彼にとってはひょっとすると、途方もないあの光の意義が、たった今永遠に消滅しまった、と思われたのかもしれない。(3)かつてデイジーと彼を引き割いていた、偉大なる距離と比べて、それ[光の意義]は非常に彼女に近づいて、今にも彼女に触れるほどだった。それ[二人の距離]はまるで、星と月のような近さであった。今や元のように、それ[光の意義]は「波止場の緑の灯火」であった。彼を魅了するものの勘定が、また一つ減ってしまったのだ。)
(1)西部の開拓は、難事業であった。移動中、大勢の人々が亡くなり、時間がかかる中人々は年老いた。アメリカン・ドリームという、自分の夢を叶えることができる保証など、どこにもなかったが、ギャツビーは、それを叶えることができた。黄金娘のデイジーを手に入れた彼は、成功者である。彼女は、精神的な成功、そして経済的な成功の象徴である。
しかし彼には、自分のゴールが見えてしまった。そうなると少しの間、次に何を求めればいいのか、彼にはわからなくなってしまう。ついには、何年も何年も緊張し続けてきた結果として、彼は「ねじを巻き過ぎた時計のように」壊れてしまうのである。しかしそこで、さらにギャツビーを魅了するのが、デイジーの「不滅の歌」のような声である。
(2)ニックの解釈は、ギャツビーが1章で緑の灯火に手を伸ばす様子(22)を想定して考えられている。6章でギャツビーは、過去の観念を取り戻したい、と言う(117)。彼は、デイジーを追うことになってから、何か大切な観念を見失った。緑の光こそが、デイジーを追う自分が大切にする、夢中になっているシンボルの一つであった。ニックは、ロマンティックな発言に感動し、腕を絡めるデイジーに対する、茫然としているギャツビーの態度を見て、そのように感じたのだ。あくまでもロマンチストとして、ニックはギャツビーを観察している。野間正二氏は、次のように述べている。
激しい恋愛であればあるほど、自分の概念を愛するというエゴイズムの傾向は強くなる。なぜなら、恋愛は相手を理想化する激しい感情でもあるからだ。理想化された激しい感情を、生身の人間はじゅうぶんに受け止めることができない。[中略]
生身の人間がうけとめ切れなかった激しい愛情(相手を理想化する感情でもある)は、相手を超えたところに、つまり自分のこころの内に向かうことになる。相手にたいする自分の思い込みを肥大化する方向にむかわざるをえなくなる。その結果、生身の相手ではなく、自分が作り出した概念を愛するようになる。あるいは、生身の相手に失望し、愛そのものが色あせてゆく。そのことは、ギャツビーの場合にも当てはまる。(野間 261)
そして、「極言すれば、生身のデイジーは、ギャツビーにとっては、愛の熱狂から現実に目を覚まさせるものだった」と述べている。
(3)緑の灯火とは、アメリカ大陸の緑の象徴であるフロンティアだ、という読みも可能である。フロンティアは、また一つ消滅した。夢を叶えた結果、持ち続けることが可能な夢も、また一つ減ったのである。物理的にフロンティアという土地には、限りがある。
月と一つの星は、地球から見れば同じ輝くものかもしれないが、大きさにおいて星は月に及ぶはずもなく、両者の距離は、永遠と言っていいほどに離れている。次のギャツビーの夢は、人間には絶対にかなわないものとして描写されているのである。
ギャツビーの思いは、傍目に見える緊張した態度の裏に、満ち満ちている。そしてそれは、先に彼の真実を知っていると、いくらでも解釈の余地がある。ギャツビーが、「緑の灯火」について話したことで、彼の持つ大切な観念がまた一つ姿を消した、というニックの解説が入る。
この小説の結末に描かれているのは、オランダの船乗りの姿の想像であり、ギャツビーはその象徴となっている。彼は、成功の夢の象徴である緑の灯火を目指して手を伸ばす、西部的人物として描かれている。ニックは、一貫して彼がアメリカ開拓者である、と主張しているのだ。リチャード・リーハン氏は、次のように述べている。
フロンティアが消滅しても、冒険心に富んだ精神はなお存在した。ただ、その精神が熟視する対象は、以前ほどヒロイックなものではなく、時には陳腐でさえあった。フィッツジェラルドの描くギャツビーは、このようにヒロイックなヴィジョンを持ちながら、そのヴィジョンに相応しい経験を見つける機会のない人間だった。フロンティアが消滅してしまったとき、ギャツビーはその西部的情熱を東部に持ち込み、「フロンティア」に相当する空間を、ニューヨークの暗黒街に、プロの賭博師、酒の密売人、金融街の黒幕、土地ではなく都市が生み出した新種の搾取者が暗躍する世界に、見つけたのである。(リーハン 28[11])
ギャツビーにとっては、かつて美そのものであったデイジーが、ただの黄金娘でしかなくなっていく。しかし彼は、その観念を維持するために、暗黒街に繰り出すのであった。彼は、人情味あふれる人間とはいえ、控えめに言っても大犯罪者である、ウルフシェイムと付き合うことが、悪いとも何とも思っていない(77)。彼は、むしろ悪事を自分のビジネスとして、誇りに思っているところがある。ギャツビーは、その点では道徳的・倫理的に問題がある人物である。しかし、ギャツビーは、第三章で見ていくように、欠点があるからこそ、その美点がより輝いて見える人物なのである。そしてそれは、彼の悪事を上からかき消してしまうほど、豪華絢爛たる輝きなのである。
第三章 ギャツビーの偉大さ――交錯する二人の物語
第一節 希望を見いだす非凡な才能
デイジーは、人を轢き殺しておいて名乗り出ず、トムは、ジョージ・ウィルソン(George Wilson)を使い捨てにして、ギャツビーを始末する。そんな彼らの身勝手な様子と対照的に、どこまでも偉大なギャツビーが、描写されている。彼は、もちろん悪事に手を染めるという手段を取るのだが、どこまでも彼女に幻滅することなく、薄れゆく理想に責任を持ち、命懸けで自分の信念を貫き通し、デイジーを思う。それと同時に伺えるのは、表層的には平穏な、けれども実は修羅場であるブキャナン家と、破滅へと向かうギャツビーの様子である。
(1) Daisy and Tom were sitting opposite each other at the kitchen table, with a plate of cold fried chicken between them, and two bottles of ale. He was talking intently across the table at her, and in his earnestness his hand had fallen upon and covered her own. Once in a while she looked up at him and nodded in agreement.
(2) They weren’t happy, and neither of them had touched the chicken or the ale — and yet they weren’t unhappy either. There was an unmistakable air of natural intimacy about the picture, and anybody would have said that they were conspiring together. . . .
(3) He put his hands in his coat pockets and turned back eagerly to his scrutiny of the house, as though my presence marred the sacredness of the vigil. So I walked away and left him standing there in the moonlight — watching over nothing.(Fitzgerald 154-155 italics mine)
((1)デイジーとトムは、それぞれ向かい合ったキッチンのテーブルに座っていた。彼らの間の机の上には、一枚の大皿に乗った、冷えたフライドチキンと、二本のエールの酒の瓶があった。彼[トム]は机を挟んで、彼女に一心に話しかけ、彼の手は本気も本気で、彼女[デイジー]自身の手を覆い被せて包んだ。時折彼女は彼を見上げ、同意するように頷いた。
(2)彼らは幸せではなかった。彼らのどちらも、チキンにもエールにも手を付けなかった。そして決して、お互い不幸というのでもなかった。絵に描いたような紛れもない自然な親密な雰囲気で、一体誰が彼らはともに同じ空気を吸っていなかった、と言えようか。[中略]
(3)まるで僕[ニック]の存在が、寝ずの番の神聖さを損なうかのように、彼[ギャツビー]はコートのポケットに手を突っ込み、くいっと背を向け、屋敷をじっと見つめていた。だから、僕は歩いて彼の元を去った。そこに月明かりに照らされている、無を見張っている彼から。)
(1)トムとデイジーは、テーブルを挟んで向かい合っている。この距離を以って、二人の関係性がある。彼らはお互いをお互いとして認め合っている。トムがデイジーの手を取るのは、果たして演技か、それとも素なのか[12]。素だとしたらどこまでも鈍感な人々である。しかしそのことが、却って二人の結びつきを醜悪なものにしている。その間には人間味のない、冷えたフライドチキンがある。野間正二氏は、次のように述べている。
手が付けられずに冷えたフライドチキン。つまり冷たいブツブツの鳥肌は作者フィッツジェラルドによって、この時のデイジーの象徴として描かれている。この時のデイジーは寒気がするほど魅力のないものとして存在していることを暗示している。また、冷たい鳥肌のフライドチキンはトムとデイジーの醜悪な結びつきをも象徴している。フィッツジェラルドらしい、巧みなシンボルの使い方だ。(野間 267)
私は(2)においても野間氏の引用をし、デイジーとトムの醜悪さを示している。彼らは金にものを言わせて、あるいは金があるのをいいことに、人間が取るべき責任というものと向き合おうとしない。それは何か。村上春樹(1949-)氏の『ノルウェイの森』(1987)の主人公ワタナベの考えを例に出して説明したい。
でも俺[ワタナベ]は彼女[直子]を見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺の方が強いからだ。そして俺はもっと強くなる。そしてもっと成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。…俺は責任というものを感じるんだ。…俺はもう二十歳になったんだよ。そして生き続けるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。(村上 204、傍点引用者)
直子は精神の病を抱え、完全に治る見込みがあるとは言えない。その一方ワタナベの前には緑という素敵な女性が現れ、彼は惹かれていく。しかしワタナベは、頑なに直子への気持ちを忘れず、緑への恋情を押し殺す。最終的に直子は、自殺をしてしまう。ワタナベが悲しみのあまり、この世界のどこにいるのかわからなくなるまで悲しみぬいたところで、『ノルウェイの森』は締めくくられる。
ワタナベの姿勢は、ある点で問題があるにせよ、人として当然取るべき態度である。人はどこかで、生きていくための代償を払わねばならない。それはきっと苦しみを伴うことだろう。人によって、姿かたちは異なるけれども、必ず向き合わなければならない、人としての責任がある。
にもかかわらず、トムやデイジーは、それから逃げている。デイジーは、マートル・ウィルソン(Martle Willson)を轢き殺したことを告白するべきだし、トムは不倫を謝るべきだ。彼らは、それをしないのである。それに対してギャツビーは、この責任に対して、彼一流の烈しさを以って、立ち向かっていく人物なのである。
(2)かなり多くの否定表現が、この部分では見られる。私たちは、そのことによって彼らの罪まで否定されているかのような印象を受ける。野間氏は、続けてこのようにも書いている。
[ニックが]二人には幸福とか不幸とかいう人間的な感情を読み取ることができなかったわけだ。そういう感情とは無縁の存在に見えたのだ。二人を結びつけているのは、「何事かを共謀している」かのような、何か後ろくらいものであるかのように、ニックは思えたのである。(野間 267)
デイジーという女は、自分から主体的に何かを選ぶ、ということをしない女である。それは、8章の自分の生活をとにかく誰かに固めてほしかった、という描写(161)からも読み取れる。そんなデイジーを見守るギャツビーに、偉大さがある。
(3)ニックの眼には、すでにデイジーの価値は、無(“nothing”)であると映っている。ニックは、それほど彼女にもう幻滅しているのだ。
しかし、ギャツビーにとってのデイジーの価値は、失われてはいない。ギャツビーは、以上述べたデイジーであるにも関わらず、彼女にもしものことがあってはいけないと思い、ずっと見守っている。それは、彼女の人間性や勇気を信じているからに他ならない。これはもちろん、自分自身の理想を彼女に投影した姿であり、ギャツビーの誤解である。けれども彼は、彼女に対しての寝ずの番の神聖さを信じている。そして翌朝になって自分が殺されてしまうまで、決してその信念を曲げることをしない。ニックが”extraordinary gift for hope”(希望を見いだす非凡な才能[13])というように、彼は、一度こうと決めたらどこまでも信じ切る、不屈の人間なのであり、その性格は決して、やわなものではない。
ギャツビーにとって、デイジーを見守らなくてはならない理由など、ない。逃げればいいのだ。彼は、結局無残な最期を遂げる。彼は、何故意味のないことをするのだろう。きっと彼にとって、与えられた意味などないのだ。自分は、ただ彼女を守るだけである。一歩引いて見るならそれが、彼に与えられた人生という、演劇のステージにおける役割であり、そこで演技をすることで個性が誕生し、人生に意味が生まれる。人生に意味を見いだしていくという、これが、彼にとっての希望を見いだす非凡な才能である。
ニックにも、かつてはギャツビーのような美的理想があった。けれどもそれは、戦争体験の前に失われてしまった。自分以上の体験をしたはずのギャツビーが、何故「失われて久しい夢」(”well-forgotten dream”)を捨てないでいられるのかが、ニックにはまだわからない。ニックは、ギャツビーの希望を見いだす才能を目の当たりにして、理解を超えた感動をしているのである。
第二節 計り知れない烈しさ
ニックは、黒を白にひっくり返すような、驚くべきギャツビーの言葉を耳にする。ニックの価値観には、その発言を受けて、大きな変化が起きるのである。そして彼は、何があっても揺らがない観念を持ち続けるギャツビーに、唯一の賛辞を贈るのである。
(1) “Of course she might have loved him just for a minute, when they were first married — and loved me more even then, do you see?” Suddenly he came out with a curious remark.
“In any case,” he said, “it was just personal.”
(2) What could you make of that, except to suspect some intensity in his conception of the affair that couldn’t be measured? . . . .
“They’re a rotten crowd,” I shouted across the lawn. “You’re worth the whole damn bunch put together.”
(3) I’ve always been glad I said that. It was the only compliment I ever gave him, because I disapproved of him from beginning to end. First he nodded politely, and then his face broke into that radiant and understanding smile, as if we’d been in ecstatic cahoots on that fact all the time.(Fitzgerald 162-164 italics mine)
((1)「もちろん彼女は、ほんの少しくらいは彼を愛したかもしれない。二人が結婚して、最初のころはね。それでもなお、僕をもっと愛していたでしょうよ、そうでしょう?」
彼は出し抜けに、奇妙で注意を惹きつける所見を口に出した。
「いずれにせよ」彼は言った。「それは個人の問題だ」
(2)計り知れようもない、この事についての彼の観念における、烈しさを訝しむこと以外に、一体何を見いだせようか?[中略]
「やつらは腐ってる」僕は芝生越しに叫んだ。「君は、反吐が出るような奴ら、そのまま全部束になっても、まだ足りないほどの価値がある」
(3)そう言ったことを、ずっと嬉しく思っている。それは、僕が彼に与えた唯一の称賛だったのだ。というのも、僕は彼を首尾一貫して、是としなかったのだから。初め彼は、丁寧に軽く会釈し、そして彼はふと、まばゆいばかりの、物分かりの良い笑みを浮かべた。まるで我々はいつも、その事実でぐるになって有頂天だったのですよね、と言わんばかりに。)
(1)ギャツビーは、あくまでもデイジーがトムを愛していた、という事実をなかったことにしたい。それが叶わぬなら、せめて妥協点を見出したい。ギャツビーは、”of course”と言って譲歩しながらも、最後のニックという藁にしがみつこうとしている。
それまでのギャツビーは、グダグダと自分のデイジーへの未練を語っていた。それをぴたりとやめて、突然我に返ったかのように、「個人の問題にすぎないことを語ってしまった」と言って口を閉ざすのである。
(2)ニックは、3章で語ったように、呆れるほど正直な人間であり、語りにおいては、ウソをつけないような人間だった。彼は、ある意味それを誇りにしていたのだが、その自分にない魅力を備えたギャツビーの一面に、驚くのである。彼の概念の中にある、烈しさ。烈しさ。烈しさ。測りようがないそれ以外に、一体何が見出せるだろう、とニックは思う。
それは、彼がずっと貯めに貯め続けたドン・キホーテ的騎士道精神のようなものであり、とてつもなく大きな力のようなものである。ニックの価値観は、父の教えが胸にあったために、生まれも知性も何も持っていないはずのギャツビーが、誰にも負けない烈しさを抱いていることに気付き、大きく変わるのである。
ニックは、ギャツビーの烈しさに負け、思い出したように、振り返って言う。ニックは、普段格式ばった丁寧な言動をするが、ギャツビーに放った彼の言葉は、珍しく荒れている。『ルミナス英和辞典』によると、単数形の略式の”crowd”を使い、また”damn”という、略式の罵るような言葉の形容詞を使っている。「やつらと比較するのも失礼なくらい、君ってやつは素晴らしいよ。それでも彼女を見捨てないとはね」。その言葉からは、そんなニックの声が聞こえて来るかのようである。
(3)強い想いに支えられた行動の総体が、彼の全てだったのである。他の点で彼は、決して手放しで認めるに値しない人間であった。確かに成り上がりとしての彼は、トムの言うように、確かにギャングであり、無法者であり、嘘つきである。
しかし、尚もギャツビーを讃えざるを得ないほど、彼の烈しさには、真実があったのである。その真実とは、生まれや知性などとは関係なく「ぼくが他の人の中にはこれまで見たことがなく、これまでも二度と見いだせそうもない浪漫的心情」である。ニックは、父の教えの影響を受けているからこそ、彼に感動できた。ギャツビー自身も、自分が時代遅れの人間であることは、わかっていたかもしれない。けれどもニックは、ギャツビーを認めた。彼らは、お互いに相手の心情が分かりあっているからこそ、称賛を分かち合い、共感することができたのである。
ギャツビーの力が湧いてくる源である、計り知れない烈しさとは、デイジーへの思いであり、その思い以上のものであった。私は、それを「自らの美に対しての、普遍的な、人間が取るべき責任のようなもの」ではないか、と解釈している。私が参考にするのは、ギャツビーと同様に、己の信念を貫き通した漢の心情が綴られている、太宰治(1909-1948)の短編小説である、「走れメロス」(1940)である。
「間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私はなんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。[中略]メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力に引きずられて走った。(太宰 179-180、傍点引用者)
これは、ニックがギャツビーの姿を見ていて感じたような、トムやデイジーが取ろうとしなかった、人間の責任そのものではなかろうか。メロスがセリヌンティウスに交わした約束の崇高さも、暴君ディオニスへの勇気も、決して「走れメロス」の主題ではない、と私は考える。約束を実現させたから、彼は英雄だ、と呼ばれるに至ったのである。理性で言い表せるような、そこまでにいたるまでの理由というものは、上手く言葉にならない。もし言葉にするなら、「一方通行な思い込み」であり、一方の人からもう一方の人へと結ばれた、信頼関係であり、それを果たさなければならないという、強迫観念である。
『ノルウェイの森』のワタナベも、生きていくための代償を払わなければならない、と言っているが、ここでのギャツビーは自分と向き合い、自分の思いに素直に、行動しなければいけないことに直面している、と言えるのではないだろうか。
ギャツビーには、第一節で述べたような、ドン・キホーテ的な信念がある。もちろんデイジーのためを思って、あらゆる行動を、ギャツビーは尽くす。しかし繰り返しになるが、それ以上のものがあるのではないか、ということを、私は主張したいのである。それは、自分の美的観念に従事しようという、強い思いの籠った烈しさであり、ニックの言葉でいうところの、まさに「プラトン的観念」(104)である。ニックは、それがあってこそギャツビーが神の子であるのだ、という自負を持っていると判断して語ったのである。
それは、わかる人にはわかるし、わからない人には、一生わからないものなのかもしれない。普通の人は、こうした美学に共感することはあっても、最後までそれについていくことはできない。こうした何よりも強い想いである烈しさは、例えばトムのように、”crazy!”と吐き捨てて馬鹿にされてしまうようなものである。しかし私たちは、ギャツビーの生真面目な人物像を見ていて、どこか心の奥底で沸々と、彼への思いがたぎってくる。
第三節 本当の雪、僕たちの雪
ニックは、ギャツビーがアメリカ建国神話における、代表的成功者であるフランクリンを真似て、ノートをつけていた(184)ことを知り、ギャツビーの父であるヘンリー氏の言葉を聞く。彼の葬式が終わった後、ニックには、中西部への思いが芽生えたのであった。宮脇氏は中西部ミネソタについて、次のように述べている。
やはりこの雪はどこか美しい。できることなら、雪が消えないまま春がやってきてくれればなどと、勝手なことを考えてしまったりするのだ。…長い冬のあいだ苦しめられたにもかかわらず、この雪にだけは不思議な愛着を感じてしまうのである。それが中西部、ミネソタの雪なのだ。(宮脇 42-43)
そんな雪に囲まれた地方の中に、ニックはギャツビーと自己との共通点を見出し、その本質的なものについて思いを巡らせる。
(1) When we pulled out into the winter night and the real snow, our snow, began to stretch out beside us and twinkle against the windows, and the dim lights of small Wisconsin stations moved by, a sharp wild brace came suddenly into the air. (2) We drew in deep breaths of it as we walked back from dinner through the cold vestibules, unutterably aware of our identity with this country for one strange hour, before we melted indistinguishably into it again.
. . . (3) I am part of that, a little solemn with the feel of those long winters, a little complacent from growing up in the Carraway house in a city where dwellings are still called through decades by a family’s name. (4) I see now that this has been a story of the West, ... and perhaps we possessed some deficiency in common which made us subtly unadaptable to Eastern life.(Fitzgerald 186-187 italics mine)
((1)僕たちが、駅から外の冬の闇へ出て行ったところ、本当の雪が、僕たちの雪が、両側に広がり、窓を背にして、ほのかにまたたき始めた。そして、ウィスコンシン州の小駅のほの暗い灯が運び去られ、その頃になると、突然、辺りの空気の中に、自然のままの張りのようなものがただよってきた。(2)僕たちは、夕食を済ませて冷たい空気の中に戻ってくる途中、それを深々と吸い込んだ。自分達がこの田園地帯に認める、僕たちらしさを、言語に絶すれども、はっきりと気付きながら、なじみのない一時間を過ごし、ついに僕たちは、再び見分けがつかないほどに溶け込んでいった。
…(3)僕は中西部の一部であり、長い冬の感覚を背負って、いささか厳粛であり、何十年の昔からいまだに住宅が、家族の姓を冠して呼ばれるような町のキャラウェイ家に育ったために、いささか気取ったところがある。(4)今にして思えば、これは結局、西部の物語であった。…そして僕たちは多分、我々が東部の生活に適応できないような、ある共通する足りないものを備えていたのだろうと思う。)
(1)この作品は、夜を描いた作品である、と言ってもいい。それほどメインの出来事は、夜に行われている。ここでは輝くものの明るさが、夜の闇の暗さと対照的に強調されている。そこで浮かび上がるのは、都会の強い光ではなくて、ほの暗く温かな光である。窓から見えるのは、決して人工的なまばゆい光ではなく、本物の雪が放つ、おぼろげでほの暗いきらきらと輝く光であり、それが「僕たち」の上に連なっていくのである。雪は、白色のシンボルとなっている。純粋さ、”innocent”の白だ。ニックやギャツビーの根源にあるものは、この雪の、逆説的な温かさである。
(2)一時間経つ頃には、その故郷で過ごしている。つまりこれ以上なく落ち着いて過ごすことができ、故郷にいるといつの間にか、一時間が経っている。これは、人が時間の経過とともに、その土地の空気に馴染んでいく過程である。地方から都市へと旅立つ青年が、都市に馴染むのには、時間がかかる。ニックがニューヨークを好きになるのにも、時間を要した(60)。しかし地方へと帰る場合は、むしろあっという間の出来事であるのだ。
6章でニックが言い出しかけて、失われた言葉(118)は、この場面で思い出され、自分の独自性を証明できるようになっている。家の玄関に入って「ああ、寒い」と思う瞬間には、何とは言えないものの、愛着が湧く。私たちは、寒さに対して「嫌だ」と言いつつ、どこかで親しみを感じずにはいられないのだ。
自分らしさは、大衆社会と呼ばれる二〇世紀において、失われる傾向にある。都会においては特にそうである。だが不思議なことに、雪の中に一つに溶けていく経験は、一考したところ自分らしさを失う過程であるはずなのに、むしろ自己同一性の回復につながっている。これこそが、中西部の良さなのである。
(3)長い冬と対になっているのは、キャラウェイという姓であり、ニックが嫌悪してきた、一族の伝統的な一家団欒である。それは、もはや二〇世紀になって時代遅れではないか、という思いすら湧くような、けれどもギャツビーの生き方を見ていれば、それもありではないかと思えるような、温かいものである。
彼がずっと気に掛けてきていた生まれについての自負は、家族の姓を認めることで穏当な形に落ち着く。ニックは、自分の正直さの基礎を作った厳粛さや気取ったところを、今では肯定的にとらえることができる。
(4)ニックは、ギャツビーが同胞であることに気付くと同時に、腐敗したデイジーやトムのような人々、そして別れを言うべきジョーダンも、元々は中西部出身者であったことに気づく。中西部の穏やかさや懐の深さは、彼らを少し許す気持ちになるほど広いということであり、ニックは、それだけ東部の歪んだ性質を、身をもって知ったのだ。
ニックが感じたのは、この土地だからこそ「ギャツビー」(God’s Boy)が生まれたのだということである。ニックは、やはりギャツビーと同じように、最後くらい、中西部の人間として、物事のけじめはつけておきたいと感じ、ジョーダンを呼び出した。そして彼は、さっぱりと別れることができ、本当の意味で三十歳になれた。彼はきっとこれから、真面目な人生を送るよう努力することだろう。
中西部に住む、自分としてのアイデンティティは、自然と生まれ、そこにあるすべてが、自分に近しいものとして数えられる。ニックは、ギャツビーの夢である緑の光が、ここから生まれたのだ、と確信する。宮脇氏は、緑の灯火について言及している。
『グレート・ギャツビー』に描かれる「緑の灯火」は一般的にヴァージン・ランドとしてのアメリカ大陸の緑であり、また、アメリカのドル紙幣の色を指すとも解釈されている。しかし、フィッツジェラルドが、彼の夢の象徴としてこの色を選んだ理由は、なんといっても長い冬の後の目にまぶしい樹木や草の緑色だったのではないだろうか。(宮脇 45[14])
緑とはシンボル的な光である。ギャツビーが、その光にありったけの思いを込めたのが、緑の灯火なのだ。その理想は、手が届きそうで届かない。ギャツビーは、じれったい気持ちを隠しながら、冬を乗り切るようにして、彼一流の真面目さで我慢をした。その先に彼は、ブキャナン邸の波止場の、緑の灯火を見いだしたのである。
結論
二〇一三年に公開された、バズ・ラーマン(Baz Luhrman, 1962-)監督のハリウッド映画The Great Gatsby [motion picture](邦題は『華麗なるギャツビー』)は、サナトリウムにいるニックが、自分の体験をつづった小説、”Gatsby”の上からこう書き添えて終わっている。”The Great Gatsby”と。
この論文を通して議論してきたのは、ギャツビーの偉大さとは、いったいどのようにして見出せるか、そしてそれは何か、という問いであった。私の論においては、ギャツビーの偉大さの在処とは、客観的に見たときには魅力のないデイジーに、すなわち薄れゆく美に幻滅することなく、括目し続けたところにある、としたい[15]。
第一章で証明したのは、条件付きで信頼できる語り手であるニックの、信頼できる条件とは何か、ということだ。それは、物語の中でニックが、いかに変化していくかを、捉えるということである。私は、ニックの物語としてこの作品を読む中で、それを検証した。ニックは、生まれと知性を誇りつつも、戦争体験の激しさから抜け出せず、また一九二〇年代の時代にも適合できないところがあった。そのため、かつて持っていたモラルが、漠然としていた。しかし彼は、章を進むにつれて明らかになる、ギャツビーの烈しさに共感し、ギャツビーの希望を見いだす才能を、自分の中に感じ始める[16]。そして彼は、中西部で自分の果たすべき責任と向き合うことを決意する。これが、ギャツビーの偉大さを考える上で基礎となる、語り手ニックの価値観である。
第二章で浮き上がらせたのは、アメリカ合衆国の歴史である、西部開拓やそこから生まれた成金の歴史とギャツビーを、同じコンテクストに置くことで、彼の人物的特徴を浮き上がらせることである。彼の邸宅は、いわくつきの物件であり、彼は、その黒歴史と重なるようにして突き進んだ。そして彼は、パーティーを開く人としてウエスト・エッグに君臨し、人々をもてなしたが、自分自身の暗い影を消すことができず、次第に自滅するように嫌われてしまう。彼は、緑の灯火が象徴するフロンティアが消滅するかのように、デイジーという、パーティーを開く目的が達成されたと同時に、下り坂を迎える。だがギャツビーは、一時代的に偉大な漢ではないのである。歴史の普遍性を持ったヒーローなのである。
第三章で問いかけたのは、人間ギャツビーの偉大さである。彼は、中西部で育まれた、豊かな想像力の上に生まれる、成功の夢の持ち主である。待っているのがどんな激しい運命であろうと、彼は、一度決めたことに対してどこまでもまっすぐである。それを要求するのは、彼の絶対的存在を前にした時の、美学における途方もないほどの、烈しい責任感のようなものである。ギャツビーの偉大さとは、そうした人間的烈しさである。
それを見たニックは、唯一の賛辞を投げかけずにはいられなかった。そしてその絢爛豪華な個性に、周りが幻滅して見えるほどだった。ニックは、何度も何度も語り直し反芻している内に、その在処が中西部の冬の雪にあることに気づく。真っ白な、僕たちの雪。そして自分の故郷の姿を捉えるのである。
緑の灯火を見るギャツビーは、どこまでも偉大な、デイジーに対する審美性を感じていた。ギャツビーの烈しさを受けたニックには、6章でギャツビーが彼に話した美の観念も理解できた(118)。ニックは、その美を求めて困難を乗り越え、歴史を作ってきた人々に、ギャツビーの姿を重ね合わせる。
フィッツジェラルドの『楽園のこちら側』という作品の引用が、この作品の冒頭にはなされている[17]。そこから次のような教訓が読み取れる。ニックは、ギャツビーの烈しさを次のように解釈したことだろう。
愛する者のためなら、何でもやってやろう。理想のためなら、どんなことでもやってやろう。愛する気持ちが叶わなくても、その悲しみをも超えてやってやろう。それこそが、アメリカン・ドリームだ。
ニックが、二年前の出来事を振り返っているうちに、二年前見たギャツビー邸からの景色が、鮮やかに思い出されて弾ける。1章で見た、ギャツビーが緑の灯火に手を伸ばす様が、フラッシュバックする。”So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past”.(192)(そうして絶え間なく過去へと流されながらも、現在に向き合うボートに乗って、僕たちは漕いでいくのである。)この作品は、こう締めくくられる。
この作品の主題とは、ギャツビーの、美への絶対的観念という「烈しさ」である、と私は考える。ギャツビーのやったことの、全てを肯定することはできないが、彼に罪があるが故に、私たち読者は、彼がやってきたことを、全て塗り替えてしまう程に烈しい彼の思いに、胸を打たれずにはいられない。
ニック自身の価値観が揺れる中、ギャツビーというヒーローを眺めている。ニックという視点が、ギャツビーの烈しさに、ぴったりと絶妙にピントが合うことで、この物語は三文小説に終わらずに、歴史に残る傑作となっているのだ。そしてその烈しさが生まれるのは、何気ない私たちの故郷からであり、その烈しさとは、人間だれしもが本来持っていて、忘れてしまったものなのだ。「生まれも知性もないギャツビーが烈しさを見せたのだから、私たちにもできるだろう?」今、父の教えを顧みたニックにとっては、そのように感じられるのではないだろうか。きっと私たちのことをどこか期待して、眺めているのではないだろうか。
The Great Gatsbyは、ニックというフィルターを通さないと、絶対にわからないギャツビーの偉大さを、ニック自身が語り直すことで、再確認する作品である。この作品は、悲劇で終わっていない。読書をしていて、胸の奥まで伝わらずにはいられないギャツビーの烈しさは、この作品の最大の効果である。彼の烈しさは生きている。ニックという、フィッツジェラルドの分身によって、私たちは、もう一つの分身であるギャツビーの偉大さに導かれていき、希望を感じながら本を閉じ、また開くのだ。[18][19]
凡例
日本語訳は筆者による。
1.文中における英語表記に関して、””で括って表現している。
2.底本は The Great Gatsby. England: Penguin Essentials edition,2011に拠った。初出はThe Great Gatsby by Francis Scott Fitzgerald copyright © 1925 by Charles Scribner’s Sonsである。
3.引用文が掲載されているページを()で括って表現している。著者名が書かれていない場合は底本からのページ数であり、著者名が書いてある場合はその筆者による書籍からの引用である。
4.ローマ数字は本文の何章ということかを表すときのみ使用し、それ以外の数 字は漢数字である。
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